ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

気にかけなかった植物

2018-10-30 14:47:01 | 日記
お姑さんの部屋を片付けていた時、何気なく日当たりの良い窓際に置かれた二つの植物の鉢植えに目を移すと、両方とも葉が全体的に茶色く枯れてきていることに気づいた。

お姑さんの部屋にあるのは観葉植物と洋蘭の鉢植えで、どちらも私がお姑さんにあげたものだが、私自身も同じものを育てている。

私が育てている方は葉が枯れることも無く元気なのに、なぜお姑さんの部屋にある植物が枯れてきてしまったのか不思議に思った。

いつも二つの植物に水をあげていたお姑さんがいなくなって、今度は私が水やりをしていたのだが、自分の育てている鉢と同じタイミングで水をあげていたので水分不足というのも考えにくいし、温度も日当たりも丁度良い。

あっ、もしかしたら・・・

もしかしたら、この植物たちは寂しくて元気が無くなってしまったのだろうかと思った。

お姑さんは植物好きだったので、水やりをする時には植物に声をかけながらあげていた。

「大きく元気に育つんだよ」とか、花が咲いた時には「きれいな花を咲かせてくれてありがとう」とか、常に二つの植物に何か言葉をかけていたような気がする。

それに対して、私は機械的に水やりをしていたように思う。

もちろん植物は好きなので、枯れないようにと水をあげていたのだが、二つの鉢はお姑さんの部屋にあることもあって、常に目が届いていないというのか、自分の住まいで育てている植物たちとは「気にかけ方」に差があったように思う。

そうだとしたら、なんとかわいそうなことをしてしまったのかと思った。

「気にかけずにいてごめんね」と枯れた葉を摘み取りながら植物たちに謝った。

それからは、お姑さんの部屋の植物たちにも心を向けながら水やりをするようにした所、それ以上枯れることは無く、なんと花のつぼみまでつけて元気になってくれた。

植物にも人の想いは伝わるのだろうか。

生き物なので当たり前と言えば当たり前なのだが、寂しくて枯れたのだとしたら、植物たちにも心があるのだろうか。

ところで植物には声がけをすることはあまりないのだが、動物にはついつい声をかけてしまう。

長くなるので、この続きはまた。







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庭作り

2018-10-26 15:58:24 | 日記
ここに引っ越してきて以来、葉は茂るものの花が咲かないアジサイがある。

三年くらい前からやっと二つくらい花が咲くようになったが、それ以上は咲かず、今年はたった一つだけだった。

毎年ちゃんと花芽を残して剪定しているのだが、知人の家では花芽など関係なしにバッサバッサと切っても翌年にはたくさん花が咲くと言う。

一度、知人の真似をしてばっさりと深く剪定してみたが、状況は変わらないどころか、その年は花がひとつも咲かなかった。

お姑さんに「切るから咲かないんだ。切るんじゃない」と言われたので、昨年は切らなかったのだが、やっぱり花は一つだけだった。

もしかしたら日当たりが良くないことが原因なのかもしれないと思った。

アジサイの植えてある場所は、日中すこしの時間だけ日が当たるものの、一日のほとんどが日陰になっている。

いくら日陰に咲いているイメージのあるアジサイでも(私だけのイメージ?)日かげ過ぎだったかもしれない。

というわけで、今年は意を決してアジサイの植え替えをした。

意を決してなんて大げさかもしれないが、抱えきれないくらい大きく育ったアジサイを植え替えるのはけっこう勇気がいる。

アジサイの周囲をえっさえっさとスコップ掘り下げたあと、全体を両手に抱えて引っこ抜く。

これがなかなか手ごわくて、ちょっとやそっとでは抜けない。しっかりと根を張っている。

寒い日だったが、アジサイと格闘するうちに徐々に暑くなってきて、上着を脱ぎ捨てて汗を拭きながらの作業になった。

で、こちらがめでたく植え替えしたアジサイ↓



植え替えた場所は日当たり抜群なので、来年はたくさんの花を咲かせてくれるといいのだけど。

ところで園芸と言えば英国が有名で、庭作りに興味のある方なら英国の庭は憧れかもしれない。

英国には世界的に有名な庭園から、個人宅の庭まで多くのオープンガーデンがあるそうで、毎年オープンガーデンの場所と日時の案内がまとまって載っている「イエローブック」なる案内書が書店に並ぶそうだ。

本を片手にオープンガーデン巡りなんて楽しそう・・・私は薔薇が好きなので、英国の庭はぜひ見てみたい。

そんな英国で近年、庭づくりに対する考え方が変わってきたのだとか。

20世紀までは「手をかけた庭こそ美しい」という考え方が中心だったが、21世紀に入ると事情が変わってきた。

地球温暖化の影響で雨が少なくなり、水やりの手間がかかる一方、庭を手入れする人手が不足するようになり、「手間をかける」ということが難しくなってきたそうだ。

あの王室でさえ人手不足は深刻で、エリザベス女王が暮らすウィンザー城では、19世紀のビクトリア女王時代に80人いた住み込みのガーデナーが、今や数人ほどしかいないそうだ。

そこで英国ではそれまでの「手をかけた庭」から、「新・宿根草主義」と言われる宿根草を中心にした手間のかからないナチュラルな庭へと変わってきていると言われている。

つまり、日当たりや温度、風通しなど、その土地に合った植物を選んで植えれば、手をかけなくても十分に美しく育つということで、これはずぼらな私にはぴったりの考え方で深く共感する。

「イギリスの庭は、生きた植物を使った絵画制作である」とはチャールズ皇太子の言葉だが、絵画とは言えないまでも、せめて幼児のお絵かきくらいの庭を作りたいものだと思う。





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必要なものは・・・

2018-10-24 16:01:04 | 日記
お姑さんが高齢者住宅へ移ったので、お姑さんの部屋を片付けている。

二人の義理の姉たちが、高齢者住宅で生活をするために必要な品を選んでくれて持って行ってくれたのだが、まだまだ部屋には大量のものが残されている。

と言っても、お姑さんはまだ元気でぴんぴんしているので、部屋の中のもの全てを片付けるわけにはいかないのだが、もうここに戻って生活することはないので、使わない箪笥や食器、衣類などを処分をしている。

最初にお姑さんの持ち物の選別だけを義理の姉たちにやってもらったが、ここからは私がやらなければならない。

私の父の時は一軒家で荷物が大量にあった為、業者にすべてを任せたのだが、お姑さんの部屋は二間だけなので業者に任せなくても自分でできるのではないかと思った。

夫は業者に任せたらと言ってくれたが、専業主婦なので時間はたっぷりある。

というわけで、毎日少しずつ片づけをしていた。

大きな家具は市の大型ごみに申し込んで引き取ってもらい、食器類は燃えないゴミとして市の回収に出した。

衣類はゴミとしても出せるのだが、こちらはリサイクルしてもらえるそうなので、リサイクル業者の無料引き取り所まで持って行った。

また家電は13年以上が経ち古くなったので、お姑さんが高齢者住宅へ持って行ったテレビ以外は捨てることにした。

電子レンジなどの小型家電はリサイクル業者が無料で引き取ってくれるのだが、困ったのが冷蔵庫で、冷蔵庫は家電リサイクル法に沿って廃棄処分しなければいけない。

一番安く済むのは、新しい冷蔵庫を購入した時にその店に引き取ってもらうことだが、あいにく新しい冷蔵庫を買う予定はない。

次に安いのは、市が提携している民間業者にお願いする方法なのだが、こちらは玄関の外まで自分で出さなければいけないそうで、それは難しい。

というわけで、家の中から運んでくれる業者さんにお願いすることにした。

引き取りと廃棄の料金は合わせて約9000円ほどだったが、他の大型ごみ料金、有料ゴミ袋の購入など、すべての料金を合わせても2万円しないくらいだろうか。

やはり自分でやる方が断然安上がりになると思う。

さて、お姑さんの持ち物を押し入れから出してみると、出てくる、出てくる、大量の浴衣が出て来た。

一体、誰がこんなに着るの?というくらいある。これらの浴衣は、お姑さんが自分で縫ったものだ。

他にも縫っていない浴衣や着物の反物がいくつもあって、反物を見るとつい買ってしまったお姑さんの姿が目に浮かぶ。

大量にといえば、毛糸もたくさん出て来た。

そういえばお姑さんは編み物も好きだったので、毛糸を見るとつい買っていたのだろう。

お姑さんの同じ物ばかり大量買いを見ながら、私も買うものは違えど、むかし同じようなことをしていたことがあったなぁと思い出した。

昔は石が好きで、きれいな石を見ると欲しくて、つい買っていたことがある。

その前はインテリア小物だった。

インテリアのお店を見て歩くのが大好きで、いろいろとインテリア小物を買っていた。

何年か前に生活をシンプルにすることに目覚めた時に、それらはずいぶん処分してしまった。

今はほとんど欲しいものは無くなったし、どうしても欲しいと思った物でも数日考えに考えて、それでも気になれば買うし、そうじゃなければ買わない。
(ほとんど買うことはないが・・・)

あまり物を買わなくなると、そんなにたくさん物がなくても生きていけるということがわかった。

生活に必要な物って、実はそんなに多くなかった。

ただ、綺麗なものを身の周りに置いて、それで幸せな気持ちになったりテンションが上がるということも分かるし、それを否定する気もないが、私の場合はモノを持たない生活の方が心地よく感じる。

というわけで、義母の部屋を片付けたついでに、今日は我が家のキッチンの戸棚も整理した。

久しぶりに戸棚の整理だったので意外と不用品が潜んでいて「これは使っていないし、これからも使うことはないだろう」と思われるものをゴミ袋いっぱい捨てた。

そのほとんどは銀行などからのもらい物が多いのだが、それでもまだ使えるのにもったいないという気持ちになる。

ただ使わずに取っておいて場所が無くなる方がもったいないし、多くの物が台所にあることで作業の効率が下がると最近は思うようになった。

台所は、使いたいものがすぐに使えるようにシンプルにしておきたい。

要らないものはもらわない。買わない。

そして余裕のできたお金は、保険ではできなかった歯の治療に使った。







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胃カメラ検査

2018-10-19 16:16:05 | 健康
なかなか疲れが抜けない。すこし動いただけで疲れる。

旅行疲れと、その前から続いているお姑さんの部屋の片づけ(今も進行中)で疲れが取れないのかもしれない。

ところで昨日は年に一度の人間ドックの日だった。

今年は、毎年受けている診療機関を変えてみることにした。

別に今までの診療所に不満があったわけではないのだが、届いた人間ドック受診のお知らせをよく読んでみると、今までは無かった新しい診療所が加わっていた。

しかも、そこは街の真ん中に建つおしゃれなビルの中にあった。

おしゃれなビルの中にある診療所とはどんなとこぞや・・・と、ただの興味本位で変えてみただけなのだが、これが失敗だった。

私は胃弱体質なので、バリウムではなく毎年胃カメラをやってもらっている。

最近は口からカメラを入れるよりもずっと楽だとの評判が高い?鼻カメラもあるが、私の場合、鼻腔が狭すぎて鼻カメラは無理だと言われ、仕方なく経口カメラにしている。

だが、これは何度やっても慣れない。

上手な医師にやってもらえると少しの吐き気で済むのだが、下手な医師に当たったらもう最悪で地獄の苦しみになる。

個人で胃カメラをする場合と違って人間ドックは医師を選べないので、これはもうロシアンルーレットのようなものだ。

ところで、人間ドックでは必ず血圧を測る。

もともと低血圧気味ではあったが、昨日の血圧は4回も測り直したほど低かった。

たしか上が71で下が43くらい。

測る度に徐々に上がって行ったが、それでも低くて、道理で体調がイマイチなはずだと思った。
(疲れが取れないなと思う時は、必ず血圧が低いので・・・)

そんな中もっとも嫌な胃カメラの検査が始まり、初めての診療機関ということで看護師さんから問診があった。

そこで「鼻カメラは希望しないのですか?」と聞かれたので鼻からは無理だと言われていることを伝えた。

いつものように喉に麻酔をしてマウスピースをしてベッドに横向きになっていると、30代と思われるくらいのお医者さまがいらっしゃった。

今日はすでに大勢の胃カメラをやってこられたのだろうと感じるほど、お疲れモードが漂っていたので嫌な予感はした。

そして、残念なことに予感は的中だった。

とにかく機械的にカメラを入れてくるので吐き気が止まらない。

吐き気の動作は胃カメラを入れる時には危険だと分かっているので、なんとか呼吸に集中しようと思うのだが、今回は呼吸もままならないほど吐き気が強かった。

徐々に医師がいら立ち始め「相当、胃カメラ苦手なようだねー。これは口からは無理だわ。どうして鼻からにしなかったの」と言った。

すると、先ほど問診してくれた看護師さんが「鼻カメラは無理だったそうです」と言ってくれたが、いら立っている医師は「今度は全身麻酔でやった方がいいよ。保険外になるから人間ドックではできないけどね」とおっしゃった。

さらに胃カメラを目の前に差し出してぐにゃぐにゃ動かしながらおっしゃった。

「いい?胃カメラってこんなに細くてしなやかなの。だから全然だいじょーぶなの。安心して呼吸してればいいだけだから簡単でしょ?」

全身麻酔で何度かやったこともあるが、人間ドックでも上手な医師なら大丈夫だったから、今回も挑戦したのだ。(ロシアンルーレットで最悪の当たりを出してしまったけど・・・)

それから、安心して呼吸してだと?
安心したいけど、呼吸に集中したいけど、それができないから苦しんでいるんでしょーが。

な~んて実際はそんなことを思う余裕さえなく、なんとかカメラを飲み込んでやっと検査を終えた。

今回は体調があまりよくなかったので胃カメラがよりつらかったのだと思う。

それにしても、お医者さんは技術はもちろん大切だが、それと同じくらい人間性が大切なのだと思った。

苦しむ患者さんに寄り添う気持ちは伝わるもので、それだけでも患者は安心できる気がする。

いくら安心してーと言われてもね。

心が入っていない医師に言われても安心できないものだ。

というわけで、昨日は人間ドックへ行ってふらふらになって帰って来た。

検査結果はとくに問題なしだったが、前にもまして疲れた。

新しい診療所は、以前の所よりきれいだし検査も早いしで良かったのだけれど、やっぱり来年はいつもの所に戻そうかなと思っている。

はぁ~疲れた。。。






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旅行

2018-10-17 18:29:47 | 旅行
先週から今週にかけて旅行へ行ってきた。

旅の目的は、来年の3月には卒業して群馬を離れることになっている次女の所に行くことで、題して「群馬を巡る旅~」なんちゃって。

その前に・・・

すこし時間があったので、まずは東京観光をすることにした。

東京は、これまで皇居や浅草、上野公園、日比谷公園、墨田川の観光船などに行き、どこも良かったし(特に皇居は素晴らしかった。空気がぜんぜん違う)娘たちのご要望で原宿も行ったのだが、できれば人があまり多くない場所がいいなぁと言うわがままな要望がある。

東京在住歴30年の友だちに「東京観光でおススメは?」と聞いた所、「東京はね、お芝居とか歌舞伎とか芸術を楽しみに来る所よ」と言われた。

そうなのか、そういう楽しみ方もあったかと目からうろこだった。

しかし、今回は時間がないので、以前、夫が東京出張で時間があまった時に行って、なかなかよかったと言う「江戸東京博物館」へ行った。

こちらではガイドさんがいて頼めば案内してくれる。

せっかく行くのなら、ガイドさんに案内して頂こうとお願いしたのだが、江戸時代の人々の暮らしや江戸の町の中の様子など詳しく教えて頂き、気分は一気に江戸時代。



江戸時代の方々も歌舞伎を楽しんでいたのでしょうね~。次回はぜひ本物を観たい。

さて江戸東京博物館を駆け足で回り、駅に向かう途中に見た両国国技館。

「あれが両国国技館。テレビと同じだ」なんて、実際に見る有名な建物にも感動しながら大急ぎで群馬へ向かった。

さて群馬へ行くのは三回目になるのだが、いつも次女の住居を整える為だけに行くので、ゆっくりと群馬観光をしたことがなかった。

しかし今回は、夫が一緒なのでレンタカーを借りて群馬を心ゆくまで観光できることになった。

群馬は次女が4年間お世話になった場所であり、次女にとっては第二のふるさとになった。

あと数か月で卒業なので、最後に次女も一緒にゆっくりと観光したかった。

さて県内を車で移動していると、あちこちに柿とみかんの木があった。

柿やみかんの木は屋外の北海道では見たことが無いので、それらが普通に庭にあるというのが非常に珍しい。

特に柿はどの木も豊作のようなのに、だれも採らないのが不思議だ・・・いつ収穫するのだろうと気になる。

私は植物が好きなので、どうしても植物に目が行ってしまうのだが、もうひとつ日本らしいなぁと思ったのが赤松で、赤松は道南に植林されているのを見たことがあるが、天然の赤松はみたことがない。

赤松は、まるで盆栽を大きくしたようで日本的でとてもきれいだと思う。

さて、群馬ではいろいろな所へ行ったのだが、群馬の有名観光地、草津と伊香保の温泉はやはりよかった。

こちらが草津の湯畑。


また今回初めて知った観光地で、織田宗家ゆかりの大名庭園「楽山園」へも行ったのだが、静かで落ち着いた庭園でこちらもとても良かった。

さらに城下町の街並みも非常に日本らしくて興味深かった。

観光客の姿がほとんど無いというのが非常にもったいない。


「楽山園」


「こんにゃくパーク」
こちらは大変混みあっていた。

無料バイキングをやっており、いろいろなこんにゃく料理が味見できます。
「これもこんにゃく!?」と言うような料理があっておもしろい。

群馬県内を車で走り回っていたのだが、最後に、ここはどうしても外せないという場所へ行った。

「榛名神社」です。

参拝を決めてから、カメラを持って歩いていたにもかかわらず、なんとすっかり写真を撮ることを忘れていた。

それで神社の写真は撮っていないのだが、参道を下る途中に「美しいなぁ」と感動した景色を一枚だけ撮ってきた。



群馬県はとても良い観光地が多くあるのに、魅力度が下位だというのが不思議だ。
まだまだ行きたい所は沢山ある。

しかし残念ながら帰る日になってしまい、飛行機の時間まですこし時間があったので、また東京観光をした。


「谷中ぎんざ」です。

そうそう、東京で観光したい場所があったのでした。

小さな商店が並んだ下町の商店街へ行ってみたかった!

お惣菜やさんでコロッケを買い、小さな喫茶店でコーヒーを飲み、ぶらぶらお店を見て歩いて楽しかった!

こういった普通の商店街を北海道ではほとんど見かけないので楽しい。

短い時間だったが観光をして、きっと海外からくる外国人の観光客は、こういう視点で日本を見ているのだろうと思った。

本州の何気ない風景が非常に日本的に見える。

もちろん北海道も日本だが、歴史が浅いこともあって本州の風景とは違う。

だから日本的な風景に憧れる。こういうのが外国人の感覚なのかもしれないが。。。

九州も四国も美しくて良い所がたくさんあるのだろうなぁ。

もちろん沖縄も美しい風景が満載で、何度も行ったことがあるが大好きな場所だ。

日本はまだまだ行ったことのない所ばかりだし、行って見たい所がたくさんある。

これから日本中たくさん旅をしたい。







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新聞を読んで

2018-10-11 14:42:52 | 日記
札幌市内に住む外国人を毎週紹介している新聞記事を、いつも楽しみに読んでいる。

今日の記事で紹介されていたのは、ロシア出身の若い女性だった。

ロシア出身と言っても白人系ではなく、日本人と変わらない顔立ちの東洋人であり、出身はサハリン州ユジノサハリンスクとある。

ここは戦前までは日本領だったところで、樺太豊原市と呼ばれていた町だ。

戦後40年以上、外国人の立ち入りが禁止されていたが、現在は日本国領事館が置かれ、北海道庁や北海道銀行の出先機関があるそうだ。

そして彼女の国籍はロシアだが、人種は朝鮮族なのだとか。

その彼女が北海道に興味を持つようになったのは、同居していた祖父母の影響だったと書かれていた。

祖父母がまだ子供だった頃、そしてまだ豊原市だった頃、豊原市には祖父母と同じ朝鮮族と日本人が暮らしていたそうだ。

突然ロシア軍が侵攻してきて日本人があわてて北海道へと逃げて行ったあと、祖父母たちが豊原市で暮らしていた日本の友人たちと再会できたのは、戦後40年以上が過ぎた頃だったそうだ。

北海道へ渡った日本人の友人たちの話を、多分良き思い出だったに違いない話を、祖父母から聞いて育った彼女は日本や北海道に興味を持つ。

高校から日本語を学び始め、その後、交換留学生として九州大学で学び、北海道大学大学院へ進学して、現在は市内にある企業で働いているそうだ。

ずっと「ロシアと日本をつなぐ仕事がしたい」と考えていたことが叶ったと書いてあった。

この記事を読んで思い出したことがあった。

それは以前、仕事で訪問していたおばあさんから聞いた話だ。⇒「昔話」

おばあさんが20代の頃、樺太豊原市に住んでいたことを話してくださったことがある。

「寒い所だけれど、よい所だったよ」と懐かしそうに話すおばあさんのお話は壮絶なものだった。

突然ロシア軍が侵攻してくると聞き、ほとんどの持ち物はそのままにして着の身着のままで逃げたこと。

若い女性は長い髪を切り坊主頭になって、顔に炭を塗って男の子に見えるようにしたこと。

稚内行きの引き揚げ船に乗るために、天井板もない列車に乗ったが、雨が降って来たので床に敷かれた布をみんなで剥がしてかぶったこと。

やっと着いた港は大混乱で、船には女と子供と老人しか乗れないと聞いて、おばあさんの父親は残ったこと。(それがお父さんとの最後の別れだったそうだ)

そのような壮絶な体験を話されるおばあさんは、時折「ロスケが」と言って、侵攻してきたロシアを今でも許せないというような感じを受けたが、お話が豊原で暮らしていた頃のことになると、一変してなつかしそうなお顔になった。

「朝鮮人の人がたくさんいたよ。日本人も朝鮮人もみんなで仲良く暮らしていたんだよ」とおっしゃっていたことを憶えている。

「日本人が北海道へ逃げた時、朝鮮の人はどうしたのでしょうか?」と、私はおばあさんに聞いた。

当然、引き揚げ船には朝鮮人たちは乗れなかっただろうし、乗る必要はなかっただろう。

すると、おばあさんは「さぁ、どうしたものかねぇ。わからないねぇ」と心配そうにおっしゃった。

でも、朝鮮の人たちはそのまま樺太に残っていたのだ。

全員がそうとは言い切れないが、今朝の新聞記事を読む限り、樺太豊原に残って現在もロシア人として生きているのだということが分かった。

おばあさんに教えてあげたいと思ったが、それはもう叶わない。

記事に載っていた若い女性には、ロシアとも朝鮮とも、みんなが仲良く平和になるように、頑張ってほしいものです。








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レレレのおばさん

2018-10-10 16:25:26 | 日記
今年は大きな地震があった為か、ニュースなどで紅葉の話題を耳にすることが無いような気がする。

もしや、紅葉まだとか?

いやいや、そんなはずはない。

気が付けば裏山の木々は赤や黄色に彩られ、我が家の玄関前の歩道は街路樹や裏山から飛んで来た落ち葉で黄色のじゅうたんが出来上がっている。

例年ならば、落ち葉の掃除はお姑さんが引き受けてくれていたのだが、お姑さんが施設に入ったので、今年からは私がやらなければいけない。

それにしても私は、お姑さんと同居するまで、家の周囲の落ち葉など気にすることはほとんど無かった。

落ち葉が積もり積もってから、やっと「これは少しやらないといけないかな」と重い腰を上げて掃除をするくらいで、毎日のように落ち葉の掃除をするなど考えもしていなかった。

とは言え、落ち葉のあるなしに関係なく、昔の方は毎日のように家の前を箒で掃除していらっしゃったように思う。

30年ほど前、まだ新婚だった頃に住んでいたアパートの大家さんもまた、毎日アパート前の道を箒できれいに掃除されていた。

当時、私は子供もいなかったので週に何日か仕事をしていたのだが、朝出かける時に、かなりの高い確率で箒を持った大家さんと顔を合わせた。

そして、会うと必ず大家さんは言った。

「お出かけですか~?」

箒を持って「お出かけですか~」が決まり文句だったので、私は密かに「レレレのおばさん」と呼んでいた。

でも、とてもいい大家さんで私が仕事で遅くなることがあるのを知って、「多めに作ったから食べて」とおかずを持ってきてくれることがあった。

まだ料理のレパートリーも少なくて手際の悪い私には、持ってきてくれた大家さんのおかずが大助かりだった。

だからそのお礼に雪が降ると、私が大家さんに代わって雪かきをしてあげたのだが、それをまた大家さんは大そう喜んで下さって、おかずを持って来てくれた。

決して、おかず目当ての下心で雪かきをしたわけではなく、純粋に大家さんの作るおかずが美味しかっただけで、雪かきをすればまた持って来てくれるかな~と思っただけだったのだが・・・
(完全に下心がある)

こんなことを書いていたら、大家さんはお元気だろうかと懐かしく思い出してしまった。

お元気ならば、お姑さんと同じ90代になっているだろうと思う。

さて、お姑さんもまた毎日のように家の前をきれいに掃いていた。

これが落ち葉の季節になったものなら、日に何度も掃除をするのに外へ出た。

だから我が家の前は、いつも葉っぱ一枚落ちていないほど綺麗になっていたのだが、心配は見知らぬ人に誰彼となく声をかけることだった。
(ここにもレレレのおばさんがいたー!)

見知らぬ人に挨拶だけなら良いのだが、たまに家の中に入れてお茶を飲ませていることがあった。

きっと昔はこのようなつき合いは、よくあることだったのかもしれない。

しかし現代はやはり心配であり、そのほとんどの方はよい方なのだろうが、万が一ということもあるので、見知らぬ人を部屋に上げないように注意していた。

実際に一度、当時ニュースにもなっていた貴金属の下取りをすると言う若い男性がお姑さんの部屋にいて驚いたことがある。

そんなわけでお姑さんに落ち葉の掃除をしてもらうのはありがたいものの、交友関係にも目配りをしなければいけないのがやや大変でもあった。

しかし今年からは、いつも葉っぱ一枚落ちていないほど家の前を綺麗にしてくれたお姑さんがいなくなった。

昔の私ならば、それほど落ち葉を気にかけていなかったのに、今は落ち葉がたまる前にいそいそと箒を持って掃除をしている。

年月が経って、いつの間にか私もレレレのおばさんになってしまったかもしれない。

悲しいような、嬉しいような・・・複雑な心境。






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あの日から

2018-10-04 15:28:48 | 日記
オカメインコのP太郎が亡くなって一ケ月。

やっとP太郎のいない生活に慣れてきた。

でも、たまに口笛を吹き始めて「そうだ、いないんだ」と思ったりしている。

P太郎は口笛を吹くといつも一緒に歌ってくれたので、私はよく口笛を吹いていたのだが、今でもその癖が抜けないようだ。

P太郎がいなくなってしばらくの間は、P太郎のことを話すことさえ出来ないほど悲しみが深かった。

いつかいなくなることは分かっていたが、こんなにも早くいなくなるとは想像していなかったし、これほどまでにつらいとは思ってもいなかった。

ペットの寿命は短くて、いなくなった時がつらいから動物を飼うのは嫌だ・・・と、「オカメインコを飼いたい」と駄々をこねた、まだ小学生だった次女に言った覚えがある。

結局、根負けして飼ってしまったのだが、一代目のオカメインコを飼って間もなく、次女が誤って外に逃がしてしまうということがあり、近所に聞き込みまでして必死に探したものの見つからなかった。

その時にまたオカメインコを買ってくると言ったのは、他でもない私だった。

動物好きの両親に育てられて生まれた時から何かしらの動物がいる環境で育った私は、どうしようもないほど動物が好きだ。

特にわんこなんてもう好きで好きでたまらない・・・

いままで幾度もペットとの別れを経験してきたが、やはり何度経験してもつらいものがある。

それが怖かったから、もう動物は飼わないと思っていたのだが、次女にねだられて一代目のオカメちゃんを飼ってしまった為、忘れていたあの動物の可愛さを再び思い出してしまった。

だから一代目のオカメインコちゃんが居なくなった時の寂しさは、新しい子をお迎えすることでしか埋められないと、あの時は思った。

そしてP太郎がやってきたのだが、彼は先代の女の子のオカメインコより数倍気を使って育てなければいけない子だった。

とにかく繊細で、すぐにパニックを起こして怪我をする。

だからいつもP太郎を驚かせないように、かごの近くはゆっくりと、そして静かに歩き、できるだけ大きな音を立てないようにしていた。

また誰もいない時にP太郎がパニックを起こしたことを考えて、長期間の旅行は行かずに過ごした10年だった。

このようにP太郎に気を使って過ごしたものの、やっぱりP太郎がいてくれてよかったと心から思う。

P太郎とふれあって、心が通じ合うような気がしていた10年は楽しかった。

ところで先月、P太郎がいなくなって一週間ほど過ぎた頃、朝ゴミ出しに行った時に久しぶりにご近所の「鳥ともだち」に会った。

彼女はセキセイインコを飼っているのだが、その溺愛ぶりは話を聞いただけでもわかるほど可愛がっていた。

ちょうど地震と停電のあとだったのだが、彼女から「Pちゃん、あの揺れと停電は大丈夫だった?」と聞いてくれた。

この頃、P太郎のことは家族の中でも自然に避けている話題になっていたのだが、鳥ともさんにそう聞かれたからには答えねばいけない。

P太郎が死んだことを伝えると、彼女は驚いてしばらく絶句した。

そして「実はね・・」と言って、彼女のセキセイインコもP太郎が亡くなる9日前に亡くなったことを教えてくれた。

彼女のセキセイインコは、いつもと様子が違うと思った時にすぐに病院へ連れて行ったそうだが、入院させた翌朝に病院から「残念ですが、今朝・・・」との電話をもらったそうだ。

「私が悪かった。もっとちゃんと飼ってあげていたら」と涙ぐむ彼女を見て「そんなことないよ。すごく大切にしていたじゃない」と励ましつつ、私も一緒に泣いてしまった。

二人でゴミ袋を持ったまま泣いている横を、犬を散歩中の女性が不思議そうに見て通り過ぎて行き、私たちはワンちゃんを見てまた泣いた。

彼女の気持ちは分からないが、多分わたしと同じでワンちゃんを見て自分のいなくなったペットを思い出してしまったからだと思う。

この時に同じ鳥を飼うもの同士、同じ痛みを持つもの同士と話せたことがとても癒しになった。

彼女は別れ際に「もうセキセイインコは飼わないわ。(彼女は先代のセキセイインコを寿命にはまだ早いうちに失くしている)もうこんなにつらい思いはしたくないし、私も歳だから今から飼うと責任が持てなくなったら困るしね」と言った。

(歳って、、、私と同じ57歳じゃないの~!まだ飼えるわよ~)と思ったが、それは口に出さず・・・

彼女の「もうこんなにつらい思いはしたくない」という気持ちはよくわかる。

あれから彼女には会っていないが、元気になっただろうか。

えっ、私?

まだP太郎のことを日に何度も思い出すけれど、お姑さんの引っ越しなどで忙しくしているうちに元気になった。

そして今月は旅行も計画している。

今回は海を渡るのでわくわくしている。(津軽海峡だけど・・・)

もうP太郎のオカメパニックを心配することもなくなり、旅行を楽しんでこようと思う。









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