
最近、世の中では「発達障害」という言葉がよく使われるようになってきました。
教育関係者の中では、いまから15年ほど前に、子どもの「発達障害」について認識が広まりました。
それに遅れて、職場に人づきあいが苦手な人や単純なミスを繰り返す人を問題にして、最近では「あの人は発達障害じゃないか」という言い方がひとつのブームになっています。
そして、「きっとあの人は発達障害なんだ。だから職場でうまくいかないんだ」と妙に納得してしまう。
コミュニケーションのスキルが低い人を、安易に発達障害とレッテルを貼ることに、私は違和感を感じます。
発達障害を知っているということは、その人への理解を深めるための知識であって、それ以上でもそれ以下でもありません。
学校の教師も同様です。子どもが検査を受けて、発達障害の診断が出ると、「ああ、それであの子は、学習やクラスの人間関係ででうまくいかないのだ。それで、わかったよ」で「納得」して終わってしまう危惧を抱きます。
そうではなく、「だから、こういう配慮が必要になるね」とか「こうしたら、あの子が困らなくてすむね」、「こうしたら、クラスでの人間関係がうまくいくね」と、子どもを理解するためのツールを得るために診断があるはずです。
職場でつまづく人を、安易に「あの人はきっと発達障害なんだ」と流行語のように使う、いまの風潮に、私は戸惑いを覚えざるをえないのです。
レッテルを貼るだけに使われる「発達障害」という言葉は、当事者を職場から排除する方向に働きます。
それぞれの人に得意なことや苦手なことがあります。私にもあります。私たちは、もっと個人の多様な能力を見るべきなのではないでしょうか。
他者から「コミ障」と言われ、安易に発達障害のレッテルを貼られた人は傷つきます。
「発達障害」はあくまで、その人を理解してつきあうためのツールです。