箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

社会に出る中学生に願う

2018年10月31日 09時55分14秒 | 教育・子育てあれこれ


本日は、3年生の学力テストです。高校進学のためには、いまの学力状況をみるためには、大切なテストになります。

そのため、どの子も真剣に答案に向き合っていました。





さて、私たちは、中学生に対して、「将来、社会に出たら」とか「社会では、そんな行いは許されない」とか言います。



三中の教育目標にも、「社会にかかわろうとする生徒」と、卒業時の目標とする姿を定めています。

中学生は大人になって学校を出ると、いやでも「社会」に出ることになります。

この「社会」に出ることを楽しみに思う生徒もいるだろうし、何かたいへんそうと感じ生徒もいるでしょう。

しかし、ふと立ち止まり考えみると、「社会」とはいったい何でしょうか。

そこで、もし「社会」をたくさんの人の集まりだと考えるなら、いま三中生が通っている学校も、ひとつの社会です。

そして、複数の人が集まると、そこには必ず「関係」が生まれます。親しい関係、あまり親しくない関係、尊重しあう関係、先輩-後輩の関係、利害関係、微妙な感情の関係などです。

とくに上下関係、利害関係、微妙な感情の関係をいま三中で感じている生徒は、社会というものがなんとなく複雑で面倒なものと映ります。



今でさえわずらわしいのに、大人の社会に出るなんて嫌だ。こう感じる生徒もいるでしょう。

その意味で、「社会」とはたくさんの人の集まりであり、それらの人と人の間になんらかの「関係」がある集まりであると言えます。

人間関係だけでなく、社会にはさまざまな決めごとや規則があります。個人の行動に対する制約もあります。好きなことができません。一言でいうと、自由の少ないのが社会です。

その窮屈さから、「仕事がつまらない、社会はうっとおしい」と嘆く人が、私たち大人の中にもいます。

しかし、自由が少ないからと言って、社会から抜け出ることはできないのです。

ただし、よく考えてみると、「社会」とは、たんなる人の集まりであり、「社会」なんてどこにも存在していないということに、私たちは気がつきます。

「社会」とは複数の人の集まりにつけられた名称であり、探しても、探してもどこにもない。そこには、一人ひとりの人間が存在しているだけです。

人間が存在していることの方が、確かな事実です。

だから、他人との関係で、または他人のすることを気にすることで、自分を不自由にしているのは、自分でしかないのです。

もし、社会にかかわり、社会をよくしたいと本当に思うなら、他者が悪いと責める前に、自分がよくならなければならないのです。

「社会」は、相手にばかり求めて、自分の満足いくようにしてくれるユートピアではないのです。

アメリカのニクソン大統領の言葉を借りれば、「国が何をしてくれるかを望むより、あなたが国に何ができるか」です。

(Ask not what your country can do for you—ask what you can do for your country.)

社会が何をしてくれるかを問うより、あなたが社会に何ができるかを問うのです。

三中生は、こんな自覚をもち、「社会」にかかわろうとすることを願います。



生徒には、いつか機会があれば、もう少し平易な表現で、社会にでる心構えとして、以上のことを伝えたいと思っています。