箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

子どもの居場所とは

2019年02月14日 12時19分14秒 | 教育・子育てあれこれ



中学生にもなると、子どもが家庭で一人でいても、留守番はできます。

それでも、働く親にとっては、家のこと、子どものことが気がかりになるものです。

それが小学生ならば、とくに高学年になるまでは働く親の心配はつきません。

働く女性が増えるなか、子どもの放課後の時間や学校の長期休業中の居場所確保は、社会の課題だといまや言えます。

学童保育に入れていない小学生は、平成30年には全国で約1万8000人となっていると聞きます。

もちろん自治体も学童の数を増やしていますが、入所待ちの児童、いわゆる待機児童の増加に施設数が追いついていないのが現状です。

また、かりに留守番ができる年齢になっても、両親の帰宅が遅いと、孤食(子どもが一人で夕食を食べる)にもなりがちです。

そこで、いま全国に「子ども食堂」が増えています。

地域のおとなやNPO団体が運営し、子どもに無料または少しの費用で、子どもに夕食を提供します。

箕面市では、らいとぴあ21で、子ども食堂が開設されています。



子どもにとっての居場所とは、ただたんに居れる場所という空間があるだけでは不十分です。

そこには、人がおり、そこへ行けばいつも同じ人がいるという、人間関係がある場所、対話がある場所、人と人の(心の)交流のある場所、それが居場所です。

子どもには、とくにそのような居場所が必要です。

これは、中学生にとっても同様であり、学校ならば、友だちがいる場所、親しい先生がいる場所であり、人間的交流かあり、ほっとできる居場所が必要です。

誰のための人生か

2019年02月13日 08時59分16秒 | 教育・子育てあれこれ



終身雇用制度が終わり、年功序列制度が過去のものとなったとはいえ、日本は依然として学歴社会であることは否定しがたい事実です。

一生の間の雇用が安定しているわけではない、勤続年数に応じて収入が上がっていくわけではない。

そういったいまの雇用情勢であるから、 かえってわが子には高学歴をつけたいと思うのは、親としては自然な心理でしょう。

学歴や学力が高いほど、その子の人生の選択肢が増え、可能性が大きくなるという面はたしかにあるかもしれません。

私が学級担任として進路指導をしていた頃は、府の公立高校入試の倍率が1.20倍を超えると「高いなあ」と言っていました。

しかし、いまや1.20倍は当たり前のようになり1.40倍を超える倍率の高校も増えてしまいました。

先行きが不透明な日本社会であるからこそ、かえって、わが子にはいわゆる「一流高校」「一流大学」へ進学してほしいと願う親の気持ちは理解できます。

しかし、私ほどの年齢になると、そのようにだけは思わないのも事実です。

勉強はできないより、できた方がいいかもしれない。でも、「〜ができる/できない」よりも、子どもが、将来幸せで健康に、人とつながり生きてくれさえすればそれでいい。

このように、心底思う気持ちがあるのも事実です。

こういうと、勉強ができた上に、幸せで健康に、人とつながり生きてくれたら、よけいにいいじゃないですか。

こう反論する人もいるかもしれません。

そうかもしれない。でもその点は、見極めが必要です。

もしも、わが子に「勉強」をしなさいと言ってきたのは、わが子のためではなく、自分が安心して満足したいからであるなら、子どもにどんな人生を送ってほしいのかを、ぜひ考えてほしいと思います。

どんな人でも親ならば、わが子に自分の人生を精一杯生きてほしいという、共通の願いがあるはずです。

この親の願いを受けとめた上で、お子さんが自分の将来の目標を決め、高校を選び、「学習」に自らはげむのであれば、それはそれでいいのだと、私は考えます。

「勉強」とは、相手に勉(つと)めて強(し)いることであり、「学習」とは、子どもが自ら学(まな)習(なら)うことです。

転んでも立ち上がる

2019年02月12日 17時24分39秒 | 教育・子育てあれこれ



美空ひばりが残した名曲『川の流れのように』の中に、こんな歌詞が出てきます。

「でこぼこ道や 曲がりくねった道

地図さえない それもまた人生」


人が生きていく一生の道は、まさにこの通りです。


けつまづいてこけたり、穴に足をとられたり、遠回りをしたり。

また、どこへ行き着くのか、また、行き先はわかっていても、この道でたどりつくのかもわからないときがあります。

このようなことは、何度もあります。

そんなとき、再度自分の力で立ち上がり、歩き出せる力があるかどうか。

つまり挫折しても立ち上がることができるかです。

この立ち上がりは、子どもにぜひ身につけてほしい習慣・力・態度です。

それなら、強くてたくましく育った子なら大丈夫ね。

たしかにそういう考えもあるでしょう。

しかし、強さとたくましさの中身が大切です。

硬すぎて、ポキンと折れてしまったら、たいへんです。

そうではなく、しなやかで、しなるような柔軟性をもった強さとたくましさがほしいところです。

柔軟性とは、子どもが失敗にめげない、その都度考えるという対応力です。

その意味で子どもには失敗の経験を積まさなければなりません。

わか子がかわいそうだからと、子どものいく道の障害物を先回りして、親が取り除いてばかりいるのは好ましくありません。

親から見て、子どもが失敗するだろうと思っても、あえて失敗させるぐらいの余裕がほしいのです。

失敗によって、子どもは成功するやり方を学び、その子の人生を生きていきます。

相談したのに叱られる

2019年02月11日 10時52分01秒 | 教育・子育てあれこれ





生徒が悩みをもって教師に相談するとき、たまに生徒を叱咤激励する意味で非難したり、叱りつけたりする教師がいます。


あるとき、私はわが子を連れて海水浴に行きました。

ものすごく太陽の陽射しが強く、気をつけていましたが、かなり日焼けをしました。

皮膚が真っ赤になり、ヒリヒリして病院に行ったとき、「歳を考えろ。こんなになるまでなぜ日に焼けるのだ!」と、医師から強い口調で叱られました。

私は二度とその皮膚科にはいきませんでした。

窮地におちいった相手に優位に立ち、説教する人は嫌われ、二度と相談しまいと思われます。

ここからわかるように、助けを求める人は、叱責や命令を求めているのではありません。

お前のこれがいけない、その点が悪いと言われて気分が晴れるはずがないのです。

叱る側の気分が晴れるだけです。


アドバイスを求める人には、ふつう以上に親切にするべき相手です。

自ら相談にくる生徒は、弱って、困って、行き詰まって助けを求めています。

相談を受ける教師だって、悩みをもつ人間です。相手と同じく、弱い、悩みをもつ人として、謙虚に接することができる教師に、生徒は心を開き、「先生に相談してよかった」と思ってくれます。

ネット社会における学校の役割

2019年02月10日 10時38分05秒 | 教育・子育てあれこれ




私は2000年を過ぎた頃、NECのノートパソコンのWindows me「LAVIE」を購入して、初めて家でインターネットに繋いだときの感動を今でもはっきりと覚えています。

横にいた、当時小学生だった娘が、「ワー!」と驚きの歓声を上げました。「わたしもインターネットができるようになった!」。



そのとき思ったのは、ネットが人と人、人と情報を繋ぐメディアとして有益で、誰でも情報の発信者・受信者なれるのだ。

このように感じました。



じっさいに、この校長ブログも、紙に印刷して限定された人に配る作業にはない、ネットのすぐれた利点を私は享受しています。

三中保護者はもとより、教育関係者、三中卒業生、地域の人、私の教え子、その他教育・子育てに関心のある不特定の人びとに、三中校長ブログを読んでもらっています。

この利便性は、インターネットだからこそできるヨコの繋がりを広げる情報発信です。



しかし、最近はインターネットの負の側面に気がついています。

たとえば、スマホでユーチューブを見ると、次回からは、「あなたにおすすめの動画」が出てきます。

つまり、個人の好みが本人の意思とは関係なく、データ化され、コンピュータの頭脳が働き、本人にはその人が知りたい情報だけが、与えられるようになっているのです。

もちろん、他に調べたいことがあれば、ネットで調べることは可能です。

しかし、その調べた履歴がまたデータ化され、そらに関連した情報が提示されます。

「おすすめ」を見なければいいのかもしれませんが、「おすすめの情報」が気になり、見てしまいます。

また、SNSは便利ですが、同じ考えや同じ嗜好をもった人たちをグループ化します。

いまやネットが私たちの生活に入り込み、この連鎖から抜け出すのはそれほど容易ではないのです。

このように、インターネットが、本人の知りたい情報だけを集め、利用者を結局は「タコつぼ」にはめこんでいくのです。


こう考えると、今や、インターネットは人と人を繋げるツールから、さまざまな人どうしを切り離し、極論でいえば分断するツールになってきたのです。

私たちは、ネットのこの負の側面にもっと敏感にならないといけないのだと思うのです。



まして、いまの三中生はネットにどっぷりとつかりながら大きくなってきた世代です。

彼らには、ネットで繋がっていく経験も積みながらも、実際に人と人が出会い、お互いの考えや思いを交わし、理解しあうという活動をしてほしいのです。

会話や対話に頼ってつくる繋がりを作ってほしいですし、その価値を知ってほしいと思います。

それを可能にするこが、学校という場です。

たくさんの多様な個性の生徒たちが、学校で出会い、協同して活動して、人と人が繋がりを広げていく。

ネット社会における学校の現代的役割は、この点に見いだすことができます。


本日、私立高校入試日

2019年02月09日 09時26分26秒 | 教育・子育てあれこれ




本日は私立高校の入試日です。

寒い日ですが、早朝より、多くの中学3年生が続々と受験校へ向かいました。

三中の子も、緊張した面もちで試験会場へ入って行きました。


多くの生徒にとっては、中学受験をした経験がない子が多いですので、生まれて初めての選抜試験となり、不安もあると思います。

不安に対しては、励ますことが必要です。

周りの大人が合格を願うだけでも、言葉かけ一つが励ましのエールになることもあります。



さて、ほとんどの私立高校で、専願か併願かの制度を用意しています。

専願は、合格すれば必ず入学することを約束して受験します。

 
併願は合格したとしても、公立高校の結果を待ってから、その私立高校への入学を決めることになります。

ほとんどの場合、専願の受験生は併願より合格しやすくなるのが普通です。

学科試験に加えて、面接を行う学校も多くあり、明日に面接を行う学校もあります。

三中の生徒たちは、今日の日のために、一生懸命に学習してきました。

その力を発揮して、みごと合格してきてほしいと願っています。





残念な発言

2019年02月08日 17時24分12秒 | 教育・子育てあれこれ



教え子から聞いた話です。

就活で、会社の説明会があり、ある学生が質問したそうです。

「これから就職しようとする私たちには、毎日の通勤にどれだけ時間がかかるのかが気になります。新しい会社を立ち上げるそうですが、その会社の候補になっている場所を教えてもらえませんか?」

会社の役員は次のように答えました。

「通勤時間が短いとか、少しくらい長いとか、そんなことで入社してくる社員は、うちの会社に来てもらわなくて結構です」

この回答は、残念だと私は思います。

自宅か毎日、2時間かけて通勤する。

子育てしながら保育園に送り届け出勤する。

どんなたいへんさを抱え、社員が通勤するのか。

少し考えるとわかることです。

でも、最近このように、実態を顧みず、無責任というか、無自覚な発言をする「えらい人」が多すぎます。

国会議員の発言にも、そんな状況が見え隠れします。

冒頭の発言の場合、
「勤務場所を気にされるのはもっともなことです。
まだ新しく会社の場所をこの説明会には間に合わせることができずに申し訳ないです。
決定次第、お知らせしますので、もう少し待ってほしい」

このように回答すれば、学生たちの印象は変わったものになっていたでしょう。

大事にしすぎ

2019年02月07日 17時13分32秒 | 教育・子育てあれこれ





少子化の進む日本ではありますが、箕面市の小中学校では、児童生徒数はまだ微増しています。

ただし、国全体でいえば、少子化は進行中であり、その影響は子育てにも当然の影響があります。

家庭のなかで、子どもの数が少なければ、親の目は行き届きます。

戦後のベビーブームから様変わりして、ここから子どもを大事にしすぎるという問題が出てきます。

また、とかく関心が他者よりも、自分に向きやすいという社会状況があるなかで、おとな自身が自分のことにばかり関心が向き、子どもに無関心になる場合には、いわゆる「放任」となりがちです。


最近では、子どもを大事にしすぎるか、放ったらかしにするかの、両極端に分かれる傾向にあるのが子育て事情のようです。



ここでは、ときに大事にしすぎることについて、触れていくことにします。

子どもを大事にすることは、子育ての基本中の基本であることは言うまでもありません。

ただし、大事にしすぎることは、さまざまな弊害を生みます。

大事にしすぎることは、ある意味で子どもを甘やかしているとも言えます。

すべてにおいて子どもをかまいすぎて、学習や習いごと以外はさせないようになると、それ以外のことができない子になってしまうことが多いものです。

そもそも、子どもはさまざまな能力を秘めています。表にあらわれていないだけかもしれないのです。

人の役に立つ、「ありがとう」と感じる、人に対して優しいところ、責任感がある、芸術的資質をもつなど、さまざまな力をもちます。

そのような力を外へ引き出して、伸ばしていくのが教育の役割でもありますが、子育ての役割です。

だから、その子のために、大事にしても、大事にしすぎることは避けていきたいのです。

子どもを大事にする→ make much of a child
子どもを大事にしすぎる→make much of a child excessively

excessivelyを避けたいのです。




考えるときの助けになる人

2019年02月06日 14時41分43秒 | 教育・子育てあれこれ




看護について、こんな考えがあります。

ナイチンゲールの言葉を紹介します。


病気の人の心の中の悩みを無視して、ただ元気づけようとだけしてはいけない。

病人は、人に何かを頼むのを、いつでもためらっているものだ。

看護師は病人のからだの世話に必要だといわれるが、病人が考えるときの助けにもなるべきだ。



人は、とかく相手の心中の模様を考えず、外見の見た目だけで判断をしがちです。

そして、相手に「よかれ」と思い、自分が行った行為を優しさだと勘違いします。

しかし、相手にとってはそれが迷惑になっているとすらあります。

三中生の中には、看護師に将来なりたいと看護コースを志望する生徒が、今年の3年生にもいます。去年の3年生にもいました。

機会があれば、その子たちに、ナイチンゲールのこの言葉を贈りたいと思っています。

なお、ナイチンゲールのこの言葉は、病気の人をついて述べていますが、教師はこれを、困っている生徒、悩んでいる生徒、障害のある生徒、災害で被災した生徒など、すべての生徒に当てはめることができます。

生徒が何かを考えるときの助けにもなるのが教師です。

ときとして、保護者の方から、教員のあり方について「こう見てほしい」という要望をもらいます。

外から見えることだけを考えるのではなく、相手の心の中に想いを馳せることが、教師に求められます。

私もそんな教師でありたい(まだ道は遠いですが)ですし、三中教員もそうあってほしいです。


聴いてくれる話

2019年02月05日 09時35分19秒 | 教育・子育てあれこれ



一般的に、校長の話は長く、面白くないというのが生徒の感想です。

保護者の方も、自分の中学時代の校長の話は長くて、何が言いたいのかわからず、つまらなかったという経験があるのではないでしょうか。

私も最初は話が長くなりがちでした。

そこで、今では、できるだけ話の最初に、伝えたいポイントを短く提示するようにしています。

話が長くなる原因は、時系列で話してしまうからだと思われます。


たとえば、こんな話し方です。

「帰ろうと思っていたら、教員が相談にやってきて、深刻な話につきあいました。

遅くまで残ることになり、帰る途中に前の車が止まるので、何かと思えば警察が飲酒検問をしていた。

仕事で遅くなったんだ。飲酒なんてしているはずがないだろう。プンプン!

ヘトヘトになって、やっと家に帰ったら、『きょうは何の日かわかっているの』と妻に迫られたのです。

思い出した。今日は、結婚記念日だった。

忙しくて忘れていた。何も買ってこなかった。

そして、小言を言われ、ふてくされて、すぐに寝ました・・・」


このように、時系列で話して長くても、その話が面白いのなら、生徒たちは、興味津々で楽しそうに聞いてくれます。

しかし、多くの場合、時系列の冗長な話は生徒を飽きさせ、退屈にします。

もっとも、三中の子は、面白くない話でもよく聞いてくれるとは思っています。

それでも、話している私には、生徒が聴きいっているか退屈しているかは、その様子でわかります。


そこで、通常、私は結論を短くして先に伝えるようにしているのです。

ただし、いきなり結論から入るのではなく、話し始めには、生徒の注意をひく「しかけ」や「つかみ」を入れます。

たとえば、開口一番に「みなさんは、◯◯をどう思いますか?」と質問するのも一つの方法です。

これだけでも、生徒は「自分の場合は・・・」考えるので、それ以降の話に注目します。

あるいは、驚かすようなつかみを入れるときもあり、その上で、結論を言います。

そうすると、生徒にとっては、話の終着点がわかるので、それ以降のエピソードなども、頭の中でつながって聴きます。


また、細かい情報をたくさん詰め込んで話すのも、「長い話だ」という印象を与えてしまうようです。

だから、一つの話題には一つのエピソードと心得て話すようにしています。

生徒のみならず、人はたくさんの情報を提示されても、全部を覚えておくことはできないのです。



さらに、長い文章を読むような長文を話すのは、聞く方もしんどいです。

話す方も息継ぎをしなければならないからです。

その意味で、私は短文+短文で話すようにしています。

その方が、歯切れがよく聞きやすいし、生徒の頭の中にも、ポンポンと入りやすいようです。


生徒が校長の話を楽しみにしてくれる。

そんな話し手になりたいと願い、私も試行錯誤しながら話していますが、まだ道半ばだと思っている今日この頃です。

3年生最終の三中テスト

2019年02月04日 14時20分34秒 | 教育・子育てあれこれ





今日は、14日ぶりに学級閉鎖がなく、全クラスが揃いました。

3年生が学年末テスト、1・2年生が学力テストを行うことができました。

とくに、3年生は3年間で最終の三中のテストとなります。最後のテストは国語でした。

あとは、いよいよ私学入試、公立特別入試、公立一般入試となります。





先週金曜日から始めたフェンスの修繕はおわり、約5カ月ぶりにまっすぐなフェンスになりました。





過日行った投票により、年賀状コンクール2019のグランプリ、グッドアーティスト賞、アイデア賞が決まりました。

今、2階の渡り廊下に展示しています。

あわせて、佳作も展示しています。

見事な作品群をみることができます。

保護者の方も、機会を見つけ、見に来てきてください。



ところで、年賀状と言えば、今年に私がもらった年賀状に、こんなメッセージが記されていました。


差出人は、アメリカインディアンの生活に惹かれ、酋長(spirit)と実際に一緒に生活した経験をもつ、神戸市在住の方です。

彼は、アメリカインディアンの生活信条を柱に、阪神間の学校で、体験学習の実施とふりかえりによる内面化学習をコーディネートしています。

考えることを重視する今の時代にあって、自分の意思のおもむくまま、行動する勇敢な冒険心を持った生きかたを提唱しているのだと、私は解釈しました。

彼の年賀状のメッセージは、いつも意味が深いです。

自分の道

2019年02月03日 12時55分01秒 | 教育・子育てあれこれ




私が学級担任をしていたとき、自分のクラスに、両親が離婚して、お父さんと一緒に住むことになった生徒がいました。

揺れやすい中2の時期だったので、その子が両親の離婚で傷ついていないか、気を遣ったのを思い出します。

それから30年が過ぎ、いまや親の離婚は珍しいことではなくなりました。

教員のときの経験から今思いますが、子どもはそれほどやわではありません。おとなが心配するほど、子どもは弱くはありません。

いずれ子どもは、親の離婚を受け入れますし、受け入れなければなりません。

離婚そのものは、話し合って合意して「別れよう」となったのだから、ある意味で仕方のないことです。

というか、仲が良くない両親の間で暮らす子どもへの負担の方が、子どもにとってがまんをしなければならないので、日々抑圧がかかります。

不仲の両親のもとで育つ子どもは、中学生にもなると、親が仲良くないことに気がつきます。

その場合、「わたしがいるから、親はやむなくいっしょに住んでいる」と感じる子もいるでしょう。

だから、もし子どものためと思い、離婚を踏み止まるなら、夫と妻は仲良しの関係をなんとしても、取り戻すべきでしょう。

しかし、それが無理なら、離婚して夫は夫で、妻は妻で、それぞれ幸せな人生を送るべきでしょう。

それぞれが幸せに楽しく過ごしている様子に触れた子は、安心していつかは「これでよかったのかもしれない、仕方がなかったのだ」と感じることでしょう。

ただ、離婚しても、子どもにとっての母親は一人、父親は一人しかいないというのは事実です。
一生、子どもの親としての責任はあります。

離婚により、子どもと離れて暮らすことになっても、子どものことを気にかけ、日々を精一杯生きている姿を示す責任があるのだと、私は考えます。

親がいつまでも幸せにしていてくれると、安心した子どもは、自分の道・自分の人生を進むことができます。

子どもが作るシナリオ

2019年02月02日 11時53分47秒 | 教育・子育てあれこれ




昔、流行った「スポ根もの」のアニメ、『巨人の星』では、父親である星一徹が、自分の息子である星飛雄馬に対して、「飛雄馬よ、お前は輝く巨人の星になれ」と言い聞かせていました。

また、『タイガーマスク』では、伊達直人に対して、「虎だ 虎だ 虎になれ お前は虎になるのだ」と、レスラーを養成する「虎の穴」の主(ぬし)が鼓舞しました。

その結果、星飛雄馬は巨人軍のピッチャーになり、伊達直人は悪役プロレスラータイガーマスクになりました。


翻って、子どもは、知らず知らずのうちに親からのメッセージを受け取ります。

このメッセージとは、家庭での親から子どもへの平素の言葉であったり、非言語のメッセージであったり、または親自身の生き方を指します。

この点で、子どもがどんな大人になるかは、親が意識的に、無意識のうちに発している言葉や生き方から、どんな人生のシナリオを作り上げていくかで決まっていきます。

思春期とは、自我に目覚める時期です。

だから、自分を見つめ、自分がどう生きるかというシナリオを書く大切な時期です。

また試行錯誤を繰り返して、シナリオを書き換えたりしている時期でもあります。


ということですので、中学生の時期が子どもの一生にとって、いかに大切であるかをご理解いただけるでしょう。

幸いにして、乳幼児期から子どもにとって楽しく、幸せなシナリオを書き始めていたなら、シナリオは順調に仕上がっていきそうです。

しかし、もしもシナリオが子どもにとって好ましくない方向に向きそうなら、その流れを思春期のときに書き換えていかなければなりません。

もちろん、大人になってから、その人が自身で書き換えることもできます。

(ちょうどタイガーマスクが反則ばかりする悪役レスラーから、フェアプレイをする正統派レスラーに生まれ変わったように。)

しかし、一般的には、思春期はシナリオを書き換える最後の時期だと考えていいでしょう。


だから思春期の中学生の親御さんは、子どもの心に寄り添い、子どもと向き合い、子どもを包み込む子育てが必要になります。


それは、まとめていうと「あなたをのことを、何よりも大切に思っているよ」という言語的・非言語的メッセージです。

ときとして、言葉にして、「大切な私の子どもだよ」と機会を見つけ伝えます。

また、言葉にはしなくても、親が一生懸命に生きている姿や働くなかで充実した生活を送っている態度をわが子に示すことで、子どもはシナリオを作りあげます。

学びに向かう授業

2019年02月01日 17時40分47秒 | 教育・子育てあれこれ


今日は1年生だけが、6限に残り、校内授業研究会を行いました。

4クラスで、4つの研究授業を行い、三中教職員が分かれて授業を参観しました。

この1年間、三中では生徒たちの深い学びをどうつくるかで研究実践を重ねてきました。

英語では、動詞の過去形の作り方を、英語すごろくで表現しました。

国語では、中原中也の詩を学び、詩の修辞法を学習しました。

音楽では、合唱の練習を通してパートリーダーの活躍する活動を行いました。

社会では、世界で熱帯雨林が減っている原因を考えました。

生徒たちが、主体的に学習に向かうようすを見ることができました。

台風の傷跡をなおす

2019年02月01日 17時00分37秒 | 教育・子育てあれこれ



きょうは、校舎から見える六甲山の頂には、雪がかかり、山は真っ白に見える寒い日でした。



この日に、昨年9月4日に台風で倒れてきたポプラの木でゆがんでしまったフェンスの修繕が、行われました。

ゆがんだフェンスの前に、カラーコーンを置いたまま、約5カ月間そのままでした。



台風の傷跡は、残ったままだったのです。開校以来植えてあるフェニックスの木も、葉をだいぶん取り除きました。

この度、箕面市の予算がつき、やっとフェンスの修理に至ったものです。

明日には、新しくフェンスを張り終える予定です。