
いま、3年生が公立高校一般選抜入試出願書類に目を通して、最終的に不備がなければ、校長印を押しています。
あわせて、出願時に一緒に高校に提出する「自己申告書」もすべて読み、私からのコメントを添えて返します。
(もちろん、コメントは生徒個人がとっておくもので、高校には提出しません。)
自己申告書には、3年間を振り返って、自分が何を学んできたかを、克明に綴っています。
そこには、感心させられる生徒の努力の跡が伺えます。
例えば、部活を3年間やってきて、どんな努力をしてきたか、クラスの行事に向けて委員をやり、どんな苦労をしたか、でも周りにどれだけ支えられてきたかなどが記されています。
なかには、読んでジーンとくるようなことを告白している生徒もいます。
「そうだったたのか。よくがんばったんだ」と感じさせることを書いています。
ですから、時間はかかりますが、私はコメントを添えて、一人ひとりの生徒を励ましたいと思います。
また、文言も、誤字も学級担任が見ていますが、私もチェックして、修正を求める場合があります。
高校側に、その生徒を正しく知ってもらいたいので、誤字のまま提出させるわけにはいきません。
さて、私は役職柄、教職員が出す文書をチェックしたり、決裁します。
そのとき、感じるのは、自分が普段から生徒に話す、その口調のまま文面にする教職員が若い人たちの中に散見することです。
たとえば、「なので」という接続詞です。
「私は我慢強いほうです。
なので、これぐらいの暑さには耐えることができます。」
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このように、文章にする教職員がいます。
学級通信は、ある意味で、インフォーマルな文書です。
しかし、学校から出す文書であることにかわりはありません。
だから、このような文章には、「なので」を「だから」とか「ですから」に修正します。
ということは、おそらくこの先生は、学級で生徒に話すときも、「なので」を使っているのかもしれません。
しかし、言葉は時代とともに変化するもので、大人も同じ傾向があります。
たとえば、「かぶっている」という表現は、少なくとも10年前までは「重なっている」という意味では使っていなかったと思います。
先日、正式な講演会の場で、講師の先生が「いや〜、日がかぶってしまいましてね」というのを聞いて、私は驚きました。
修学旅行のときには、学外の人が「いま、ここで生徒の整列を解くと、わちゃわちゃしてたいへんになります」という発言をききました。
それを聞いて、納得している教職員。
あまり、好ましくない言葉ですが、「混雑、混乱する、とまどう」よりは、うまく状態を表す言葉だと、納得することもあります。
ただし、学校発公式文書は、正しく言葉や表現を使って出したいと考えています。