
私は2000年を過ぎた頃、NECのノートパソコンのWindows me「LAVIE」を購入して、初めて家でインターネットに繋いだときの感動を今でもはっきりと覚えています。
横にいた、当時小学生だった娘が、「ワー!」と驚きの歓声を上げました。「わたしもインターネットができるようになった!」。
そのとき思ったのは、ネットが人と人、人と情報を繋ぐメディアとして有益で、誰でも情報の発信者・受信者なれるのだ。
このように感じました。
じっさいに、この校長ブログも、紙に印刷して限定された人に配る作業にはない、ネットのすぐれた利点を私は享受しています。
三中保護者はもとより、教育関係者、三中卒業生、地域の人、私の教え子、その他教育・子育てに関心のある不特定の人びとに、三中校長ブログを読んでもらっています。
この利便性は、インターネットだからこそできるヨコの繋がりを広げる情報発信です。
しかし、最近はインターネットの負の側面に気がついています。
たとえば、スマホでユーチューブを見ると、次回からは、「あなたにおすすめの動画」が出てきます。
つまり、個人の好みが本人の意思とは関係なく、データ化され、コンピュータの頭脳が働き、本人にはその人が知りたい情報だけが、与えられるようになっているのです。
もちろん、他に調べたいことがあれば、ネットで調べることは可能です。
しかし、その調べた履歴がまたデータ化され、そらに関連した情報が提示されます。
「おすすめ」を見なければいいのかもしれませんが、「おすすめの情報」が気になり、見てしまいます。
また、SNSは便利ですが、同じ考えや同じ嗜好をもった人たちをグループ化します。
いまやネットが私たちの生活に入り込み、この連鎖から抜け出すのはそれほど容易ではないのです。
このように、インターネットが、本人の知りたい情報だけを集め、利用者を結局は「タコつぼ」にはめこんでいくのです。
こう考えると、今や、インターネットは人と人を繋げるツールから、さまざまな人どうしを切り離し、極論でいえば分断するツールになってきたのです。
私たちは、ネットのこの負の側面にもっと敏感にならないといけないのだと思うのです。
まして、いまの三中生はネットにどっぷりとつかりながら大きくなってきた世代です。
彼らには、ネットで繋がっていく経験も積みながらも、実際に人と人が出会い、お互いの考えや思いを交わし、理解しあうという活動をしてほしいのです。
会話や対話に頼ってつくる繋がりを作ってほしいですし、その価値を知ってほしいと思います。
それを可能にするこが、学校という場です。
たくさんの多様な個性の生徒たちが、学校で出会い、協同して活動して、人と人が繋がりを広げていく。
ネット社会における学校の現代的役割は、この点に見いだすことができます。