終身雇用制度が終わり、年功序列制度が過去のものとなったとはいえ、日本は依然として学歴社会であることは否定しがたい事実です。
一生の間の雇用が安定しているわけではない、勤続年数に応じて収入が上がっていくわけではない。
そういったいまの雇用情勢であるから、 かえってわが子には高学歴をつけたいと思うのは、親としては自然な心理でしょう。
学歴や学力が高いほど、その子の人生の選択肢が増え、可能性が大きくなるという面はたしかにあるかもしれません。
私が学級担任として進路指導をしていた頃は、府の公立高校入試の倍率が1.20倍を超えると「高いなあ」と言っていました。
しかし、いまや1.20倍は当たり前のようになり1.40倍を超える倍率の高校も増えてしまいました。
先行きが不透明な日本社会であるからこそ、かえって、わが子にはいわゆる「一流高校」「一流大学」へ進学してほしいと願う親の気持ちは理解できます。
しかし、私ほどの年齢になると、そのようにだけは思わないのも事実です。
勉強はできないより、できた方がいいかもしれない。でも、「〜ができる/できない」よりも、子どもが、将来幸せで健康に、人とつながり生きてくれさえすればそれでいい。
このように、心底思う気持ちがあるのも事実です。
こういうと、勉強ができた上に、幸せで健康に、人とつながり生きてくれたら、よけいにいいじゃないですか。
こう反論する人もいるかもしれません。
そうかもしれない。でもその点は、見極めが必要です。
もしも、わが子に「勉強」をしなさいと言ってきたのは、わが子のためではなく、自分が安心して満足したいからであるなら、子どもにどんな人生を送ってほしいのかを、ぜひ考えてほしいと思います。
どんな人でも親ならば、わが子に自分の人生を精一杯生きてほしいという、共通の願いがあるはずです。
この親の願いを受けとめた上で、お子さんが自分の将来の目標を決め、高校を選び、「学習」に自らはげむのであれば、それはそれでいいのだと、私は考えます。
「勉強」とは、相手に勉(つと)めて強(し)いることであり、「学習」とは、子どもが自ら学(まな)び習(なら)うことです。