書くことがなくなって。
と言っても、そりゃ、カブやらSRやらについて、ということならグダグダ書けるんだけど、昨日今日の元号の話題から見えて来ること、正直、もうお腹一杯。
毎度同じことを繰り返している。
で、昔書いた日記を見てみたら、やっぱり似たようなことを書いていた。
9年前の四月初め。
以下のような日記を書いていた。自身、進歩してない、と思うけど、敢えてたくさん転載してみようと思う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
短期に見れば、島津重豪という藩主はとんでもないことをした、と言えます。
受け継いだ借財は66万両と、重年の代の三川治水工事の40万両、の計110万両足らず。なのに、それに上乗せすること、実に400万両。
三川の治水工事を命じられた時、既に66万両の借金のあった島津藩は大騒ぎになっています。(「薩摩義士伝」という劇画に詳しく描かれています)
とんでもない巨額の借金を抱えている上に、20万両はかかると言われる天下普請を命じられたのです。本当に20万両か、と精査すると30万両から35万両らしいとわかる。これまでの分も合わせると100万両になろう借金など返せる筈がない。
間違いなく、藩を無力にしようと画策している幕府に、藩を潰してでも戦いを挑み、目にもの見せてやる、という藩士の憤りを、歯噛みをする思いで抑え込み、工事に着手。しかし、数度にわたる堤防の決壊、幕府役人の横槍で、かかった費用は40万両。
憤りから自決する者数十名、総奉行である家老平田靭負(ひらたゆきえ)の竣工後の切腹。
この時点で、藩の台所は、もう、どうにもならなかったのです。
そんな状態の中、重豪は娘を将軍家斉の嫁に出します。正室です。
将軍家の親戚、義父となった重豪が
「婿殿に負けるわけにはいかぬ」
と散財したと言われますが、以前に書いたように、島津藩が色々な面(特に文化面)で、他藩に遅れをとっていたことは間違いありません。
藩校もない、当然、ちゃんとした学問などできない。
江戸育ちで、さらに、西洋の学問にも詳しかった重豪には、とても我慢のできないことであったろうことも、容易に想像できます。
それにしても、100万両でもとんでもないのに、更に400万両。藩校、医学院、天文館などをつくり、人材、物資を十分に用意したとしても、そこまではいかないでしょう。やっぱり、単純に「散財」したのも大きいのではないか、と思います。
けれど、
「一番でなきゃ駄目なんですか?二番じゃダメなんですか?」
という発想さえも浮かばないくらい、徹底的に借金をした結果、島津家はどうなったか。
身売りをしたのか。藩がつぶれたのか。或いは領地を削られたのか。
国力の源は、国民の教養レベルにあります。また、たとえ教養レベルが低くとも、為政者と力を合わせる気があれば、国力は高まっていくものです。
重豪は湯水のように金を使い、巨額の借金をこしらえたわけですが、それは同時に、旱天の慈雨、といった側面もあった、と言えるでしょう。
長い時間を掛け、数度のお家騒動をくぐりぬけて、幕末にも、また幾多の若い芽が伸びて、遂には藩政のみならず、国政まで動かす人材が育っていったのは、この500万両の借金と無縁ではない。
「反面教師」などという決まりきった言葉では言い切れない大きさが、重豪という人物にはある、と言えます。
名君と捉えるか、愚君と見るか。その捉え方一つで、我々は宝物を手に入れることもできるし、瓦礫の山を眼前に、立ち尽くすことにもなる。
今回の筋道を見ると、そこだけで、その事実だけで、判断することの愚を犯してはならない、ということは、すぐわかります。
そして、その事実から何を得るか、学ぶ者の志の大きさで、これもまた変わってくる、ということも汲み取れます。
ふと、こんなことも思いました。
自民党のやって来た戦後の政治は、確かに悪いところが目立つ。では、それを断罪する、全て切り捨ててしまったら、日本はどうなるのか。
「あれはダメだったから、今度は民主党に。でも民主党も大したことないな。」
そんな、国政を見下した姿勢から「立派な日本の再生」なんて、ある筈がない。信頼できる政治家なんて出てくるわけがない。
・・・・・・・・・・
(新しい)元号に関する思いは、7割以上の国民が好感を持っているらしい、ということで、間違いなく前向きに捉えらえているみたいですね。
これをその都度、事毎に是か非かを言い募る対象にしてしまっては、我が国の前途は暗雲が立ち込めるばかりです。
と言っても、そりゃ、カブやらSRやらについて、ということならグダグダ書けるんだけど、昨日今日の元号の話題から見えて来ること、正直、もうお腹一杯。
毎度同じことを繰り返している。
で、昔書いた日記を見てみたら、やっぱり似たようなことを書いていた。
9年前の四月初め。
以下のような日記を書いていた。自身、進歩してない、と思うけど、敢えてたくさん転載してみようと思う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
短期に見れば、島津重豪という藩主はとんでもないことをした、と言えます。
受け継いだ借財は66万両と、重年の代の三川治水工事の40万両、の計110万両足らず。なのに、それに上乗せすること、実に400万両。
三川の治水工事を命じられた時、既に66万両の借金のあった島津藩は大騒ぎになっています。(「薩摩義士伝」という劇画に詳しく描かれています)
とんでもない巨額の借金を抱えている上に、20万両はかかると言われる天下普請を命じられたのです。本当に20万両か、と精査すると30万両から35万両らしいとわかる。これまでの分も合わせると100万両になろう借金など返せる筈がない。
間違いなく、藩を無力にしようと画策している幕府に、藩を潰してでも戦いを挑み、目にもの見せてやる、という藩士の憤りを、歯噛みをする思いで抑え込み、工事に着手。しかし、数度にわたる堤防の決壊、幕府役人の横槍で、かかった費用は40万両。
憤りから自決する者数十名、総奉行である家老平田靭負(ひらたゆきえ)の竣工後の切腹。
この時点で、藩の台所は、もう、どうにもならなかったのです。
そんな状態の中、重豪は娘を将軍家斉の嫁に出します。正室です。
将軍家の親戚、義父となった重豪が
「婿殿に負けるわけにはいかぬ」
と散財したと言われますが、以前に書いたように、島津藩が色々な面(特に文化面)で、他藩に遅れをとっていたことは間違いありません。
藩校もない、当然、ちゃんとした学問などできない。
江戸育ちで、さらに、西洋の学問にも詳しかった重豪には、とても我慢のできないことであったろうことも、容易に想像できます。
それにしても、100万両でもとんでもないのに、更に400万両。藩校、医学院、天文館などをつくり、人材、物資を十分に用意したとしても、そこまではいかないでしょう。やっぱり、単純に「散財」したのも大きいのではないか、と思います。
けれど、
「一番でなきゃ駄目なんですか?二番じゃダメなんですか?」
という発想さえも浮かばないくらい、徹底的に借金をした結果、島津家はどうなったか。
身売りをしたのか。藩がつぶれたのか。或いは領地を削られたのか。
国力の源は、国民の教養レベルにあります。また、たとえ教養レベルが低くとも、為政者と力を合わせる気があれば、国力は高まっていくものです。
重豪は湯水のように金を使い、巨額の借金をこしらえたわけですが、それは同時に、旱天の慈雨、といった側面もあった、と言えるでしょう。
長い時間を掛け、数度のお家騒動をくぐりぬけて、幕末にも、また幾多の若い芽が伸びて、遂には藩政のみならず、国政まで動かす人材が育っていったのは、この500万両の借金と無縁ではない。
「反面教師」などという決まりきった言葉では言い切れない大きさが、重豪という人物にはある、と言えます。
名君と捉えるか、愚君と見るか。その捉え方一つで、我々は宝物を手に入れることもできるし、瓦礫の山を眼前に、立ち尽くすことにもなる。
今回の筋道を見ると、そこだけで、その事実だけで、判断することの愚を犯してはならない、ということは、すぐわかります。
そして、その事実から何を得るか、学ぶ者の志の大きさで、これもまた変わってくる、ということも汲み取れます。
ふと、こんなことも思いました。
自民党のやって来た戦後の政治は、確かに悪いところが目立つ。では、それを断罪する、全て切り捨ててしまったら、日本はどうなるのか。
「あれはダメだったから、今度は民主党に。でも民主党も大したことないな。」
そんな、国政を見下した姿勢から「立派な日本の再生」なんて、ある筈がない。信頼できる政治家なんて出てくるわけがない。
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(新しい)元号に関する思いは、7割以上の国民が好感を持っているらしい、ということで、間違いなく前向きに捉えらえているみたいですね。
これをその都度、事毎に是か非かを言い募る対象にしてしまっては、我が国の前途は暗雲が立ち込めるばかりです。