CubとSRと

ただの日記

理解「能」力をつくる 4月8日

2019年04月08日 | 重箱の隅
いきなりの街頭アンケートで出た結果を
 「これこそ『民意』だ」
 とか、
 「やっぱり大阪のおばちゃんはすごいわ。ちゃんとわかってる」
 とか。冗談も休み休みに言え、と思う。
 「そこに愛はあるんか」
 、じゃなくて
 「そこに真摯な取り組みはあったのか」。
 ・・・・・・・・・・・・・・・
 剣術を習い始めた時に、
 「結局は自分が、自分の中につくり上げるしかないんだから、稽古の仕方、刀の振り方を教わったら、後は独り稽古をするしかないだろう。型稽古も教わりたいのは山々だけれども、まともに刀を振れてこそ、の型なんだから、高望みせず、振り方だけ習おう」
 と思っていた。
 本人がその気になって、習ったことを謙虚に、丁寧に、ひたすら繰り返せば、自ずと基本は身につく筈だ、と。
 そのつもりで習いに行った。
 教わったものは本で調べていた通りのものだった。本に書かれてあることで描いていたイメージを、大きく越えるものではなかった。 
 早い話が『想像通り』、というやつだった。
 今になってみると、それは「イメージ通り」、ということではなく、自身のイメージ能力がそこまででしかなかったということなのだが。
 勿論、イメージ通りだからといって、教わってすぐにできるものではない。
 簡単そうに見える刀の振り上げ方は、やってみると全くできなかった。
 身体の各部の動かし方は、思っていた以上に特殊なもので、これまで経験したことのない遣い方を要求された。
 
 それでも、自分なりに予習をしておいたのが功を奏したのか、
 「初めてにしては形になっている」
 と言われ、素直にうれしかった。
 ところが、三日目あたりで、「型を教える」と言われた。
 できる筈もないし、習うことも想像していなかったのだが、断るのも変な話だ。それこそ失礼だ。
 できないからできる人に習うのであり、その、できる人が「教える」と言うのはそれなりの算段があるからの筈で、こちら(習う方)には、まだそれ(師範代の心積もり)を理解する能力は育ってないのだから。
 理解能力のない者が、教わるか否か忖度する。そして、それを断る。それは教わる者の態度ではない。
 「そうか。それなら帰れ」と言われたら万事休す、だ。
 初歩の型を三手ほど習ったが、素振り以上に全くできない。当然だ。更には素振り自体が怪しくなる。
 結局そこまでで、十日余りの稽古は終わった。 
 五日目には何とか覚えたと思ったが、その五日目には、既に型を教わることはなく、以降、先に進むことはおろか、型について教わることは、期間中、遂に一度もなかった。
 さて、それからが問題だ。
 残念ながら、型は三手で中止になったが、元々、習えるとは思っていなかったことだ。できなかったんだし重要とも思えない。
 とにかく素振りの稽古をしよう。
 家に帰ってから、日課にするつもりで勇んで素振りを中心とする独り稽古を始めた。
 教わったことをメモに録っていたから、注意すべきことを思い出しながらいちいち気をつけ、色々工夫してやってみるのだが、ちっとも思い通りに行かない。
 しばらくやっては考え、気を取り直してまたやってみては悩み、の毎日が始まった。
 たった一つの素振りの仕方なのに、いくらやっても疑問ばかりが、次から次へと、それこそ「湧いて」来る。
 こうなっては、もうしょうがない。みんなメモして、疑問の山を持ってもう一度教わりに行くしかない。

 最初は
 「素振りの仕方『だけ』習えばいい」
 、だった。
 それが今度は
 「素振りの仕方『だけ』は習わなければ」
 、になっていた。
 『 』の中は同じなのに、随分違う。焦点がはっきりして来た。
 そして、メモを胸中に、再び教わろうとした。
 師範代に、まず、一つ質問する。
 それに応えて、師範代は
 「それは、こうだ。」
 と、目の前で、木刀を一振りされた。
 その瞬間に
 「あ~っ、そうか!」
 全ての疑問が、その一振りで消えてしまった。
 分かったことは
 「あとは習熟するしかない。素振りをすれば疑問はみんな解決する」
 ということだった。
 勿論、それは「これからも悩み続けるしかない」、「確認のために稽古に通うしかない」、「教えを受け続けるしかない」、等を確信した、ということでもある。
 脱線するが、その時、前回は三手で終わっていた組み太刀の仕太刀(一分近くかかる)を、三日間で教わった。
 疑問の渦に呑みこまれそうになりながら、半年間やって来た素振りの成果らしい。
 「剣客商売」の中に、初心者には重くて長い振り棒を渡し、とにかく、千回振れるようになるまで、何も教えない、という場面が出て来る。
 それが、一刀流を遣う息子の、独特の稽古法というわけではないようだから、これは無外流の小兵衛からの示唆か、小兵衛の教えだったのかは分からない。
 けれど、流儀独特の太刀筋を覚えるためには、最初が肝腎なわけで、以前に書いた鵤工舎の新人みたいに、掃除ばかりさせて、根気と研究心を育て、基本である刃物の扱い方を自然に覚えるように仕向けていくのが本来だろう。
 何もできないのだから、基本となるものを覚えさせる。当然のことではないだろうか。
 「自然なフォルム」は、そうやって、当人が取り組んでこそできるものだろう。



コメント
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