池波正太郎の小説と、教科書の記述では田沼意次のイメージは対照的です。
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「剣客商売」は秋山小兵衛という、名前のとおり小さな老剣客(150センチ前後でしょうか)と、息子、秋山大治郎、その周辺の人々を中心にした読み物です。
昔は加藤剛が大治郎役をやり、最近は、故人となりましたが、藤田まことが小兵衛役で人気を博したので、大方の人はご存知でしょう。
題名のとおり、「剣客」が生業として捉えられている。だから、「剣客商売」。
顔を真っ赤にした海音寺潮五郎が、愛用のステッキをトンボにとって、「ちぇすと!」と大喝しそうな題名です。
でも、確かに学び取れるものがある。
人生の、何だかしみじみとした味わいのようなものがある。
この「剣客商売」に、田沼意次が重要な役回りで出てくる。
実力者、権力者、田沼意次は、秋山父子の後ろ盾、後見人として、常にこの親子の行動を支えている。
のみならず、自邸の家士のための道場に、秋山大治郎が出稽古に行き、生計を立てられるようにしてやっている。
また、妾腹の子、三冬を大治郎の妻にやっている。その恩義に応えるべく、秋山親子は意次の頼みを聞いて剣を揮うこともある。何十両もの金を受け取ってということも。
それもまた「剣客商売」という題名の所以。
ちょっと調べてみると、田沼意次の財政的な才覚は大したもので、当時の幕閣では束になってかかってもかなわないほどの政策の立案、実行をしています。
株仲間のことも、上納金(運上金、冥加永等)のことも、驚いたことに、これまでは不浄なものとされてきたのか、幕府は手をつけてないんです。
却って、意次のこういったやり方を、苦々しく思っていたようで、でも、目に見えて収入は増えてくる。
それはそうでしょう。これまでは直轄領(天領)とされているところから入ってくるのは、年貢米です。現金ではない。同じ天領である鉱山から入ってくる金銀、銅を用いて貨幣を造っても、造った端から商人に代金として渡しているようなもの。
でも、貨幣経済の安定性の高さは、幕府にとっても望むところ。
そうなると幕府だって、米より年中値打ちの変わらない貨幣を抱えていたい。
金座、銀座、銭座で造ったお金が、廻って天領から入ってくる(農民は年貢米、ですから)、なんてことはないのです。商人から集めなきゃ。
けど、これまでやらなかった。
大規模な国家的工事も、そうです。
必ず習う印旛沼の干拓工事。これも意次は商人に請け負わせる。手を挙げさせ、費用を提示させて、資金を預け、やらせる。
当然、できた田畑は幕府のものとなり、そこから大量の年貢米が納められる(ことになる)。
こうやって金を動かしたため、貨幣経済が発達したとされています。
金を流通させることで経済活動を盛んにし、結果、さらに金を増やしていく。
みんなが儲かり、豊かになる。これも、一種の錬金術ですね。そのものなりの値打ちで金が動くから、バブルではない。
さて、田沼意次。これで、逼迫した財政を何とか立て直しかけた。
ところが全体を眺めると、実は彼のやったことはあまりうまくは、いってないらしい。結局は印旛沼の干拓工事も失敗だったんだそうです。
色々なことに取り組んだため、経済は活発になったし、当然、仕事が多くなり、人手はいくらでもほしい。世の中は活気を帯びていたでしょう。
でも、何しろ、大計画ばかり。結果が出るまでにはそれなりの時間がかかる。
その間に幕閣(反対勢力)の巻き返しが始まります。
反対勢力の中心は、というと、御存知、松平定信。
「武士たるもの、商人の金を巻き上げて、贅沢をしながら幕政を立て直そうとは言語道断!」というわけです。
何しろ親藩白河松平藩藩主。元は本家徳川の人間ながら、養子となって白河藩主になったのです。
対して、田沼意次はどうか。
小姓から成り上がり、御用人、側用人、揚句に老中(一国一城の主)、とは何事か。それも元を正せば御三家の家来とはいえ、足軽の孫ではないか。
意次への風当たりが強くなる中で、浅間山が噴火、周辺各藩の復興支援は思うように行かず、大飢饉も重なり、意次の政治力が非難されるようになります。
そして、今度は意次の子、意知が城中で刃傷事件の被害者となる。
結局、その傷のため、意知はほどなくして死去するのですが、「立ち向かわなかったとは、武士にあるまじき怯懦」と責められる。
「所詮、足軽の裔」、「ただの成り上がり」、「この親にしてこの子あり」と散々に噂され、意次は閉門蟄居。
蟄居の間に、一方的に行われた権力闘争のため、意次は何もできないまま、失脚、そして、死去。
意次の死後、断行された「寛政の改革」は、革命と言っても良いくらい、田沼の政治を完全否定するものでした。
田沼の領地は召し上げられ、家屋敷も没収(後、一万石に減じられ、移封)されます。
しかし、松平定信の手の者が田沼邸に、私したとされる金品を併せて没収に行ったところ、「塵ひとつほどの金品もなかった」のだそうです。
賄賂として受け取っていた金品は、全て幕政立て直しのために、と幕府の金蔵に納めていたからだ、と言われています。
やはりこれは「金権政治」、でしょう。金の力で、政治を力づくで行ったのですから。
忘れてはならないのは、「金の力で、政治を力づくで」、のあとの一言。「おこなった」。
経済を盛んにし、少なくとも国を豊かにした。
対して「寛政の改革」は「清廉な政治を」行おうとして、どうなったでしょうか。
自民党もまた、「金の力で、政治を力づくで行った」。戦後の復興、所得倍増計画、列島改造、高度経済成長・・・・。
確かに金権政治。
対して現政権は・・・・・・。
金の力で強引に政治をするか。
それとも
金そのものをばら撒くか。
国が活況を呈するか。それとも国民が乞食根性を発揮するか。
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「剣客商売」は秋山小兵衛という、名前のとおり小さな老剣客(150センチ前後でしょうか)と、息子、秋山大治郎、その周辺の人々を中心にした読み物です。
昔は加藤剛が大治郎役をやり、最近は、故人となりましたが、藤田まことが小兵衛役で人気を博したので、大方の人はご存知でしょう。
題名のとおり、「剣客」が生業として捉えられている。だから、「剣客商売」。
顔を真っ赤にした海音寺潮五郎が、愛用のステッキをトンボにとって、「ちぇすと!」と大喝しそうな題名です。
でも、確かに学び取れるものがある。
人生の、何だかしみじみとした味わいのようなものがある。
この「剣客商売」に、田沼意次が重要な役回りで出てくる。
実力者、権力者、田沼意次は、秋山父子の後ろ盾、後見人として、常にこの親子の行動を支えている。
のみならず、自邸の家士のための道場に、秋山大治郎が出稽古に行き、生計を立てられるようにしてやっている。
また、妾腹の子、三冬を大治郎の妻にやっている。その恩義に応えるべく、秋山親子は意次の頼みを聞いて剣を揮うこともある。何十両もの金を受け取ってということも。
それもまた「剣客商売」という題名の所以。
ちょっと調べてみると、田沼意次の財政的な才覚は大したもので、当時の幕閣では束になってかかってもかなわないほどの政策の立案、実行をしています。
株仲間のことも、上納金(運上金、冥加永等)のことも、驚いたことに、これまでは不浄なものとされてきたのか、幕府は手をつけてないんです。
却って、意次のこういったやり方を、苦々しく思っていたようで、でも、目に見えて収入は増えてくる。
それはそうでしょう。これまでは直轄領(天領)とされているところから入ってくるのは、年貢米です。現金ではない。同じ天領である鉱山から入ってくる金銀、銅を用いて貨幣を造っても、造った端から商人に代金として渡しているようなもの。
でも、貨幣経済の安定性の高さは、幕府にとっても望むところ。
そうなると幕府だって、米より年中値打ちの変わらない貨幣を抱えていたい。
金座、銀座、銭座で造ったお金が、廻って天領から入ってくる(農民は年貢米、ですから)、なんてことはないのです。商人から集めなきゃ。
けど、これまでやらなかった。
大規模な国家的工事も、そうです。
必ず習う印旛沼の干拓工事。これも意次は商人に請け負わせる。手を挙げさせ、費用を提示させて、資金を預け、やらせる。
当然、できた田畑は幕府のものとなり、そこから大量の年貢米が納められる(ことになる)。
こうやって金を動かしたため、貨幣経済が発達したとされています。
金を流通させることで経済活動を盛んにし、結果、さらに金を増やしていく。
みんなが儲かり、豊かになる。これも、一種の錬金術ですね。そのものなりの値打ちで金が動くから、バブルではない。
さて、田沼意次。これで、逼迫した財政を何とか立て直しかけた。
ところが全体を眺めると、実は彼のやったことはあまりうまくは、いってないらしい。結局は印旛沼の干拓工事も失敗だったんだそうです。
色々なことに取り組んだため、経済は活発になったし、当然、仕事が多くなり、人手はいくらでもほしい。世の中は活気を帯びていたでしょう。
でも、何しろ、大計画ばかり。結果が出るまでにはそれなりの時間がかかる。
その間に幕閣(反対勢力)の巻き返しが始まります。
反対勢力の中心は、というと、御存知、松平定信。
「武士たるもの、商人の金を巻き上げて、贅沢をしながら幕政を立て直そうとは言語道断!」というわけです。
何しろ親藩白河松平藩藩主。元は本家徳川の人間ながら、養子となって白河藩主になったのです。
対して、田沼意次はどうか。
小姓から成り上がり、御用人、側用人、揚句に老中(一国一城の主)、とは何事か。それも元を正せば御三家の家来とはいえ、足軽の孫ではないか。
意次への風当たりが強くなる中で、浅間山が噴火、周辺各藩の復興支援は思うように行かず、大飢饉も重なり、意次の政治力が非難されるようになります。
そして、今度は意次の子、意知が城中で刃傷事件の被害者となる。
結局、その傷のため、意知はほどなくして死去するのですが、「立ち向かわなかったとは、武士にあるまじき怯懦」と責められる。
「所詮、足軽の裔」、「ただの成り上がり」、「この親にしてこの子あり」と散々に噂され、意次は閉門蟄居。
蟄居の間に、一方的に行われた権力闘争のため、意次は何もできないまま、失脚、そして、死去。
意次の死後、断行された「寛政の改革」は、革命と言っても良いくらい、田沼の政治を完全否定するものでした。
田沼の領地は召し上げられ、家屋敷も没収(後、一万石に減じられ、移封)されます。
しかし、松平定信の手の者が田沼邸に、私したとされる金品を併せて没収に行ったところ、「塵ひとつほどの金品もなかった」のだそうです。
賄賂として受け取っていた金品は、全て幕政立て直しのために、と幕府の金蔵に納めていたからだ、と言われています。
やはりこれは「金権政治」、でしょう。金の力で、政治を力づくで行ったのですから。
忘れてはならないのは、「金の力で、政治を力づくで」、のあとの一言。「おこなった」。
経済を盛んにし、少なくとも国を豊かにした。
対して「寛政の改革」は「清廉な政治を」行おうとして、どうなったでしょうか。
自民党もまた、「金の力で、政治を力づくで行った」。戦後の復興、所得倍増計画、列島改造、高度経済成長・・・・。
確かに金権政治。
対して現政権は・・・・・・。
金の力で強引に政治をするか。
それとも
金そのものをばら撒くか。
国が活況を呈するか。それとも国民が乞食根性を発揮するか。