「汚職と言えば田沼意次」??
池波正太郎の作品では人心の能く分かっている苦労人として描かれていますが、逆に学校の教科書などではあまり良い印象はありません。
・・・・・・・・・・・・・・
「金権政治」というのは、自民党、特に田中角栄を代表とする
「政治は数、数は力、力は金」
という言葉に象徴されるように金の力で以って政治を思い通りにするやり方を指します。
当然、この「金権政治」という言い方は、多分に批判的なもので、
「数に劣り、力に劣り、従って集金力にも劣る」
という万年野党たる旧社会党の、自民党批判の決め科白です。
つまり、「金権政治」という評し方は、否定的な意味を、初めから有している。
もっと下世話な言い方をすれば、やっかみが半分以上を占める言葉です。
田沼意次は、言ってみれば「金権政治」の本家みたいなものですから、これを明らかにすれば、政治の見方は随分と変わってくる。
取りあえず。
田沼意次というのは、徳川吉宗(あの暴れん坊将軍、ですね)の家来として、紀州和歌山から付き従い、江戸城に入った僅かな人数のうちの一人、田沼意行の息子だそうです。
田沼意行、というのは浪人だったのだけれど、吉宗に仕え、江戸まで行ったということで
「吉宗というのは、ほとんど丸腰に近い形で、敵地のようなところへ行ったのだな」と感心していたのですが、さっきwikiで調べてみるとちゃんと理由がありました。
意行の父は元々紀州徳川家の足軽だったのだけれど、病を得て、自ら浪人となり、紀州城下に居た。だから、意行は「浪人の子」、というわけです。
紀州家の部屋住みでしかなかった吉宗には、直近の家来はない。しかし、身軽で信用のできる者を江戸に連れて行きたい。
ということで、浪人とは言え、元は紀州の家臣である家の田沼意行に白羽の矢が立ったらしい。勿論、意行はとても喜んだであろうことは想像に難くない。
さて、徳川吉宗と言えば、三大改革の筆頭「享保の改革」で名前を知られている八代将軍。
大岡越前を登用したり、小石川薬園を元に小石川養生所をつくったり、目安箱とか、いろは四十八組の町火消しつくらせたりしたことでも知られています。
実直だったらしい意行は、一揆の平定などにあたって、功を上げ、初め三百石を与えられ、遂には六百石の旗本へ、と出世しています。
元足軽の身分の家。大出世、でしょう。
意次は、その子です。そのまま六百石、とはなれないかもしれない立場です。
何故なら、父意行は吉宗一代限りの家来。家督を継げるか否かは、次期将軍の胸のうちにかかっている。最悪の場合、領地召し上げ、浪人ということも。
しかし、意行の働きぶりが良かったのでしょう、九代将軍は意次を父の代わりに用いてくれた。
それで頑張ったら、今度は十代将軍はそれ以上に、重用してくれた。旗本から側用人、そして老中にまで取り立てられる。大名になるわけです。
院政を布いたと言っても良い島津重豪と、その下で育てられ、財政立て直しに奔走した調所広郷との関係に、少し似ています。低い身分から出発し、用いてくれた主君に忠誠を誓い、命だって投げ出す。
だからこそ意次は、大車輪の働きをした。そして遂に幕府財政の立て直しを任された。
元足軽浪人の子が大名です。大出世であると同時に、代々の徳川本家の家来に良く思われる筈がない。その分、将軍からは全幅の信頼を得、頼りにされているうちは良いのですが。
次から次へと色々な事業を始める。これまでと違って、商人からも税を取る。その代わり、仕事を与える。
商人は仕事ほしさに賄賂を贈る。表面に出さない「献金」ということになりますか。
意次の屋敷には、贈り物の部屋があったそうで、いつも贈り物が堆く積み上げられていたそうです。大変人気があったということになります。
何より、一仕事請け負えば、随分な儲けになる。商人も一所懸命です。
贈り物をするのは当然のこと。だからと言って仕事が与えられるとは限らない。贈り物は贈り物。仕事の受注は、飽く迄も入れ札の結果です。
けど、人情として、少しでも多くの賄賂を贈れば、仕事の来る率は高くなる、と思うものです、普通は。
おかげで経済活動は貨幣の流通を盛んにする「資本主義経済」の様相を呈して来る。
吉宗の倹約緊縮経済とはうって変わって、活発な経済活動の行われる世の中になる。
で、「田沼の政治」と言われるような、上から下まで賄賂の横行する「金が全ての下品な世の中」になり、田沼意次にとっては、「我が世の春」、となる。
・・・・・何と言うことでしょう!です。
それで清廉な松平定信が立ち上がり、田沼を打ち倒し、「きれいな政治を!」と大改革をはじめた。
有名な江戸期の三大改革のうち「寛政の改革」と言われるのがそれである!!
・・・・なんて、学校で習ったでしょう?
でも、清廉過ぎて豊かさ、贅沢に慣れた江戸庶民は落首を書き、狂歌として
「白河の 清きに魚の棲みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」
などと残した。
ということなんですが、ここまで書いて、あわせて、学校で習ったことをこのように思い出してみると、やっぱり
①田沼意次の頃というのは、豊かではあっても賄賂が横行していて、問題であった。
②松平定信はきれいな政治をしようとしたが、あまりに理想にはしって庶民はついていけなかった。
の2点が心に残ります。
けれど、これ、綜合してみると、当時の日本人(主に江戸庶民と武士階級ですが)にあまり良い印象を持てない。
金儲けにはしり、自分だけはちょっとでも贅沢をしたい、という気持ちばかりが見える。
つまり、ここからは日本人の良いところが全く見えて来ないんですが。
こんなヤナ奴だったんでしょうか、日本人って。
池波正太郎の作品では人心の能く分かっている苦労人として描かれていますが、逆に学校の教科書などではあまり良い印象はありません。
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「金権政治」というのは、自民党、特に田中角栄を代表とする
「政治は数、数は力、力は金」
という言葉に象徴されるように金の力で以って政治を思い通りにするやり方を指します。
当然、この「金権政治」という言い方は、多分に批判的なもので、
「数に劣り、力に劣り、従って集金力にも劣る」
という万年野党たる旧社会党の、自民党批判の決め科白です。
つまり、「金権政治」という評し方は、否定的な意味を、初めから有している。
もっと下世話な言い方をすれば、やっかみが半分以上を占める言葉です。
田沼意次は、言ってみれば「金権政治」の本家みたいなものですから、これを明らかにすれば、政治の見方は随分と変わってくる。
取りあえず。
田沼意次というのは、徳川吉宗(あの暴れん坊将軍、ですね)の家来として、紀州和歌山から付き従い、江戸城に入った僅かな人数のうちの一人、田沼意行の息子だそうです。
田沼意行、というのは浪人だったのだけれど、吉宗に仕え、江戸まで行ったということで
「吉宗というのは、ほとんど丸腰に近い形で、敵地のようなところへ行ったのだな」と感心していたのですが、さっきwikiで調べてみるとちゃんと理由がありました。
意行の父は元々紀州徳川家の足軽だったのだけれど、病を得て、自ら浪人となり、紀州城下に居た。だから、意行は「浪人の子」、というわけです。
紀州家の部屋住みでしかなかった吉宗には、直近の家来はない。しかし、身軽で信用のできる者を江戸に連れて行きたい。
ということで、浪人とは言え、元は紀州の家臣である家の田沼意行に白羽の矢が立ったらしい。勿論、意行はとても喜んだであろうことは想像に難くない。
さて、徳川吉宗と言えば、三大改革の筆頭「享保の改革」で名前を知られている八代将軍。
大岡越前を登用したり、小石川薬園を元に小石川養生所をつくったり、目安箱とか、いろは四十八組の町火消しつくらせたりしたことでも知られています。
実直だったらしい意行は、一揆の平定などにあたって、功を上げ、初め三百石を与えられ、遂には六百石の旗本へ、と出世しています。
元足軽の身分の家。大出世、でしょう。
意次は、その子です。そのまま六百石、とはなれないかもしれない立場です。
何故なら、父意行は吉宗一代限りの家来。家督を継げるか否かは、次期将軍の胸のうちにかかっている。最悪の場合、領地召し上げ、浪人ということも。
しかし、意行の働きぶりが良かったのでしょう、九代将軍は意次を父の代わりに用いてくれた。
それで頑張ったら、今度は十代将軍はそれ以上に、重用してくれた。旗本から側用人、そして老中にまで取り立てられる。大名になるわけです。
院政を布いたと言っても良い島津重豪と、その下で育てられ、財政立て直しに奔走した調所広郷との関係に、少し似ています。低い身分から出発し、用いてくれた主君に忠誠を誓い、命だって投げ出す。
だからこそ意次は、大車輪の働きをした。そして遂に幕府財政の立て直しを任された。
元足軽浪人の子が大名です。大出世であると同時に、代々の徳川本家の家来に良く思われる筈がない。その分、将軍からは全幅の信頼を得、頼りにされているうちは良いのですが。
次から次へと色々な事業を始める。これまでと違って、商人からも税を取る。その代わり、仕事を与える。
商人は仕事ほしさに賄賂を贈る。表面に出さない「献金」ということになりますか。
意次の屋敷には、贈り物の部屋があったそうで、いつも贈り物が堆く積み上げられていたそうです。大変人気があったということになります。
何より、一仕事請け負えば、随分な儲けになる。商人も一所懸命です。
贈り物をするのは当然のこと。だからと言って仕事が与えられるとは限らない。贈り物は贈り物。仕事の受注は、飽く迄も入れ札の結果です。
けど、人情として、少しでも多くの賄賂を贈れば、仕事の来る率は高くなる、と思うものです、普通は。
おかげで経済活動は貨幣の流通を盛んにする「資本主義経済」の様相を呈して来る。
吉宗の倹約緊縮経済とはうって変わって、活発な経済活動の行われる世の中になる。
で、「田沼の政治」と言われるような、上から下まで賄賂の横行する「金が全ての下品な世の中」になり、田沼意次にとっては、「我が世の春」、となる。
・・・・・何と言うことでしょう!です。
それで清廉な松平定信が立ち上がり、田沼を打ち倒し、「きれいな政治を!」と大改革をはじめた。
有名な江戸期の三大改革のうち「寛政の改革」と言われるのがそれである!!
・・・・なんて、学校で習ったでしょう?
でも、清廉過ぎて豊かさ、贅沢に慣れた江戸庶民は落首を書き、狂歌として
「白河の 清きに魚の棲みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」
などと残した。
ということなんですが、ここまで書いて、あわせて、学校で習ったことをこのように思い出してみると、やっぱり
①田沼意次の頃というのは、豊かではあっても賄賂が横行していて、問題であった。
②松平定信はきれいな政治をしようとしたが、あまりに理想にはしって庶民はついていけなかった。
の2点が心に残ります。
けれど、これ、綜合してみると、当時の日本人(主に江戸庶民と武士階級ですが)にあまり良い印象を持てない。
金儲けにはしり、自分だけはちょっとでも贅沢をしたい、という気持ちばかりが見える。
つまり、ここからは日本人の良いところが全く見えて来ないんですが。
こんなヤナ奴だったんでしょうか、日本人って。