前に
「島津重豪という五百万両もの借金を作ったとんでもない殿様」の存在があったからこそ、新しい世の中をつくる力が生れたのではないか、みたいなことを書きました。
今回はその島津藩の財政立て直しに奔走し、最終的に二百五十万両の蓄財を成し遂げ、奸物の汚名を一身に背負って服毒自殺をした調所笑左衛門のことを九年前の日記から。
・・・・・・・・・・・・・・
前藩主島津重豪より、藩政と共に借金500万両を受け継ぐことになった藩主斉宣は、近思録党にその任を託しました。
しかし、文字通りの「決死の覚悟」で藩政改革に取り組んだ近思録党は、その苛烈な改革が、却って前藩主重豪の藩政を批判する形になってしまったため、重豪を激怒させることになり、結果、藩主斉宣は隠居、秩父、樺山は切腹、という大事件、となりました。
この、「近思録崩れ」により、藩政改革は頓挫します。勿論、500万両の借金は、そのまま、です。
そこで重豪は斉宣の子、斉興を新しい藩主に立てます。まだ二十歳前ですから、斉宣ほどの策を立てられよう筈もありません。
重豪は、自らがもう一度藩政を執ろうと考えた。つまり、院政です。
重豪は、調所笑左衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)を責任者に抜擢します。
大抜擢です。
笑左衛門は茶道方、つまり茶道坊主だったからです。決して上級職ではありません。
隠居していた重豪の所に鹿児島から茶道方として出仕した笑左衛門を見て、その才を見抜き、側に置いて使い、斉宣の隠居後藩政改革に当たらせます。
何か思い出しませんか、よく似た話。
西郷隆盛の才を見出し、御庭方として側に置いて薫陶し、あれだけの人物に育て上げた斉彬。茶道坊主を側に置いて、後、その人物を藩政改革の責任者にした重豪。
名君は、その慧眼で人の才をよく見抜き、人を育てる。実際の政治は、育て上げた家臣が執るのですから。
二十歳前の斉興が藩主になった時、笑左衛門は三十代半ばです。
重豪の下で仕えはじめたのが二十歳過ぎですから、命じられて藩政改革に乗り出すまでに十五年近くが経っています。
笑左衛門は思い切った行動に出ます。江戸、大阪の、島津家が借金をしている全ての大商人に会い、その全てに藩の台所事情を包み隠さず話してしまうのです。
新しい島津の側用人、という三十半ばの男、笑左衛門が言います。
「実は弊藩には500万両に上る借金がある。藩の年収は14万両。とてもではないが返済のできる額ではない。だから、と言って返さぬと言うのではない。しかし、利息までは無理だ。約束の期限も守れない。そこで、利息なしの元金のみ、250年払い、とさせてもらう。『ない袖は振れぬ』もので、な。」
どんな大商人も一様に青ざめます。
天下の大島津家、だからこそ、心配ではあったものの言われるとおり数万両、数十万両の都合をつけて来た。それが、250年払いの利息なし、などとは。「首を括れ」というようなものです。金は回ってこそ商売になるのです。
実際、首を括った者や、店を潰してしまった者も多く出たそうです。
しかし、「ないものはない」の一点張り。やっぱり、踏み倒しみたいなものです。
中には何も文句を言わず、「わかりました」という商人もいたそうです。いつの時代にも腹の据わった人物はいるものですね。
言い渡してから、約束を守って返済を続けたそうです。が、250年払いです。その上に明治維新、廃藩置県となって、島津藩が消滅してからは払っていませんから、やっぱり「踏み倒し」になってしまいました。
次に笑左衛門は琉球の砂糖を藩の専売とします。さらに、長崎、琉球を使って、半ば公然と清との密貿易を行ないます。手足となるのは、「250年払い」を引き受けた商人たちです。貿易の手間で、彼等は却って、利益を上げたと言われています。
結果として500万両の借金を踏み倒し、密貿易、砂糖の専売で、藩には250万両の蓄財ができました。
きたないと言えばきたない、ひどい財政改革です。
ただ、財政改革に取り組み、成功した藩はまれです。
庄内藩、上杉鷹山の改革は有名ですが、借金は20万両でした。それも、明治維新前にやっと、何とか、というくらいです。萩、毛利藩の場合は俸給の多くなる上級武士をやめさせ、俸給の少なくて済む下級武士を登用して倹約をしました。
しかし、藩の4分の1が武士で収入の役に立たないそれでいて、借金500万両、などというのは、もう正気の沙汰ではありません。なのに、250万両の蓄財に成功、となると比べる相手がいないのです。
重豪の死後も、引き続き斉興に仕え、約40年間かかって豊かな藩にした笑左衛門でしたが、当たり前のやり方ではないことは、本人が一番よく分かっています。
これまでに何度も改革は行なわれようとした。
「近思録崩れ」は本当にもう後のない、絶体絶命の改革で、それも重豪によって中止させられた。
自分にはもう選ぶ手段がなかった。
だから、笑左衛門は、いざという時の用意をしていました。
そして、ついにいざ、という時が来ます。半ば公然と行なっていた密貿易が幕府の知るところとなったのです。
あまりに長い斉興の政治をやめさせ、斉興の子、斉彬を藩主として、幕府老中にという動きがあったということです。
幕閣の方針があったのか、斉彬の、幕府への働きかけがあったのか。
ともかく、表面に出てしまったからには幕府は仕置きを考える。密貿易は藩を取り潰されるかもしれない大罪です。
笑左衛門はかねてよりの計画を実行する決心をします。
常に携帯していた毒を飲み、全責任を取るのです。
「密貿易の件は、全て自分が私腹を肥やすためであった」
として、罪を全て背負って死にます。
そのために屋敷を建てるなどの工作もしてありました。(解体した家の古材を遣って、実際にはほとんど金を使ってなかったそうです。)
田沼意次と同様に、収入は藩の金蔵に回しており、屋敷に金目のものは何もなかった、と言われています。
藩侯、斉彬に悪事を為した者、として、また、その死に方(切腹でなく武士にあるまじき服毒自殺)もあって、笑左衛門への世間の風当たりは強く、大変なものだったと言います。
それこそ「藩政を私し、権力を自分のために濫用した」とされ、調所一族は離散、各地に散って名前を変え、度々居所を移して生き延びるしかなかったのだそうです。
近年になって研究が進み、調所の名誉は少しずつ回復されて来ました。大悪人どころか、重豪、斉興の命を請けて藩を立て直した恩人という認識が少しずつ広まってきています。
近思録党は、確かに決死の覚悟で改革に取り組みました。
西郷隆盛が「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」でなければ、国のことはできない、と言ったのは、まずは、近思録党のことだったのでしょう。
でも、西郷は知らなかった。
自分が嫌っていた笑左衛門が、きたない手を使ってまでも、藩の財政を考え、250万両の蓄財をしていたことを。
そして、それを使って、斉彬が自分を育ててくれたことを。
笑左衛門もまた、汚名を着てまで、藩のために命を投げ出したことを。
「島津重豪という五百万両もの借金を作ったとんでもない殿様」の存在があったからこそ、新しい世の中をつくる力が生れたのではないか、みたいなことを書きました。
今回はその島津藩の財政立て直しに奔走し、最終的に二百五十万両の蓄財を成し遂げ、奸物の汚名を一身に背負って服毒自殺をした調所笑左衛門のことを九年前の日記から。
・・・・・・・・・・・・・・
前藩主島津重豪より、藩政と共に借金500万両を受け継ぐことになった藩主斉宣は、近思録党にその任を託しました。
しかし、文字通りの「決死の覚悟」で藩政改革に取り組んだ近思録党は、その苛烈な改革が、却って前藩主重豪の藩政を批判する形になってしまったため、重豪を激怒させることになり、結果、藩主斉宣は隠居、秩父、樺山は切腹、という大事件、となりました。
この、「近思録崩れ」により、藩政改革は頓挫します。勿論、500万両の借金は、そのまま、です。
そこで重豪は斉宣の子、斉興を新しい藩主に立てます。まだ二十歳前ですから、斉宣ほどの策を立てられよう筈もありません。
重豪は、自らがもう一度藩政を執ろうと考えた。つまり、院政です。
重豪は、調所笑左衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)を責任者に抜擢します。
大抜擢です。
笑左衛門は茶道方、つまり茶道坊主だったからです。決して上級職ではありません。
隠居していた重豪の所に鹿児島から茶道方として出仕した笑左衛門を見て、その才を見抜き、側に置いて使い、斉宣の隠居後藩政改革に当たらせます。
何か思い出しませんか、よく似た話。
西郷隆盛の才を見出し、御庭方として側に置いて薫陶し、あれだけの人物に育て上げた斉彬。茶道坊主を側に置いて、後、その人物を藩政改革の責任者にした重豪。
名君は、その慧眼で人の才をよく見抜き、人を育てる。実際の政治は、育て上げた家臣が執るのですから。
二十歳前の斉興が藩主になった時、笑左衛門は三十代半ばです。
重豪の下で仕えはじめたのが二十歳過ぎですから、命じられて藩政改革に乗り出すまでに十五年近くが経っています。
笑左衛門は思い切った行動に出ます。江戸、大阪の、島津家が借金をしている全ての大商人に会い、その全てに藩の台所事情を包み隠さず話してしまうのです。
新しい島津の側用人、という三十半ばの男、笑左衛門が言います。
「実は弊藩には500万両に上る借金がある。藩の年収は14万両。とてもではないが返済のできる額ではない。だから、と言って返さぬと言うのではない。しかし、利息までは無理だ。約束の期限も守れない。そこで、利息なしの元金のみ、250年払い、とさせてもらう。『ない袖は振れぬ』もので、な。」
どんな大商人も一様に青ざめます。
天下の大島津家、だからこそ、心配ではあったものの言われるとおり数万両、数十万両の都合をつけて来た。それが、250年払いの利息なし、などとは。「首を括れ」というようなものです。金は回ってこそ商売になるのです。
実際、首を括った者や、店を潰してしまった者も多く出たそうです。
しかし、「ないものはない」の一点張り。やっぱり、踏み倒しみたいなものです。
中には何も文句を言わず、「わかりました」という商人もいたそうです。いつの時代にも腹の据わった人物はいるものですね。
言い渡してから、約束を守って返済を続けたそうです。が、250年払いです。その上に明治維新、廃藩置県となって、島津藩が消滅してからは払っていませんから、やっぱり「踏み倒し」になってしまいました。
次に笑左衛門は琉球の砂糖を藩の専売とします。さらに、長崎、琉球を使って、半ば公然と清との密貿易を行ないます。手足となるのは、「250年払い」を引き受けた商人たちです。貿易の手間で、彼等は却って、利益を上げたと言われています。
結果として500万両の借金を踏み倒し、密貿易、砂糖の専売で、藩には250万両の蓄財ができました。
きたないと言えばきたない、ひどい財政改革です。
ただ、財政改革に取り組み、成功した藩はまれです。
庄内藩、上杉鷹山の改革は有名ですが、借金は20万両でした。それも、明治維新前にやっと、何とか、というくらいです。萩、毛利藩の場合は俸給の多くなる上級武士をやめさせ、俸給の少なくて済む下級武士を登用して倹約をしました。
しかし、藩の4分の1が武士で収入の役に立たないそれでいて、借金500万両、などというのは、もう正気の沙汰ではありません。なのに、250万両の蓄財に成功、となると比べる相手がいないのです。
重豪の死後も、引き続き斉興に仕え、約40年間かかって豊かな藩にした笑左衛門でしたが、当たり前のやり方ではないことは、本人が一番よく分かっています。
これまでに何度も改革は行なわれようとした。
「近思録崩れ」は本当にもう後のない、絶体絶命の改革で、それも重豪によって中止させられた。
自分にはもう選ぶ手段がなかった。
だから、笑左衛門は、いざという時の用意をしていました。
そして、ついにいざ、という時が来ます。半ば公然と行なっていた密貿易が幕府の知るところとなったのです。
あまりに長い斉興の政治をやめさせ、斉興の子、斉彬を藩主として、幕府老中にという動きがあったということです。
幕閣の方針があったのか、斉彬の、幕府への働きかけがあったのか。
ともかく、表面に出てしまったからには幕府は仕置きを考える。密貿易は藩を取り潰されるかもしれない大罪です。
笑左衛門はかねてよりの計画を実行する決心をします。
常に携帯していた毒を飲み、全責任を取るのです。
「密貿易の件は、全て自分が私腹を肥やすためであった」
として、罪を全て背負って死にます。
そのために屋敷を建てるなどの工作もしてありました。(解体した家の古材を遣って、実際にはほとんど金を使ってなかったそうです。)
田沼意次と同様に、収入は藩の金蔵に回しており、屋敷に金目のものは何もなかった、と言われています。
藩侯、斉彬に悪事を為した者、として、また、その死に方(切腹でなく武士にあるまじき服毒自殺)もあって、笑左衛門への世間の風当たりは強く、大変なものだったと言います。
それこそ「藩政を私し、権力を自分のために濫用した」とされ、調所一族は離散、各地に散って名前を変え、度々居所を移して生き延びるしかなかったのだそうです。
近年になって研究が進み、調所の名誉は少しずつ回復されて来ました。大悪人どころか、重豪、斉興の命を請けて藩を立て直した恩人という認識が少しずつ広まってきています。
近思録党は、確かに決死の覚悟で改革に取り組みました。
西郷隆盛が「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」でなければ、国のことはできない、と言ったのは、まずは、近思録党のことだったのでしょう。
でも、西郷は知らなかった。
自分が嫌っていた笑左衛門が、きたない手を使ってまでも、藩の財政を考え、250万両の蓄財をしていたことを。
そして、それを使って、斉彬が自分を育ててくれたことを。
笑左衛門もまた、汚名を着てまで、藩のために命を投げ出したことを。