CubとSRと

ただの日記

人心について 4月4日

2019年04月04日 | 重箱の隅
 人の動き方、動かせ方について。
 大久保長安という人のことを少し。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
 大久保長安という人物については、歴史に詳しい人ならみんな知っていることかもしれませんが、何しろあまり良くは言われない。それに何だか謎の多い人物のようですね。
 元々は猿楽の家の出で、父は猿楽師だったのに、どういう経緯からか父に連れられて行った武田家では武士として仕え、大変に重用されたらしい。
 武士ではなかったのに武士として大いに働いた、ということは、何らかの能力に長けた人物だったという事でしょう。
 その大久保長安。武田家没落前に武田を離れ、今度は徳川家康に仕えています。勿論、武士として、です。
 理由は諸説あるようですが、彼の用いられ方を見れば、武田氏に仕えていた頃の仕事ぶりを買われて、と見るのが妥当でしょう。
 武田家での仕事。それは財理面を仕切ることだったようです。
 御存じの通り武田氏の収入は金山。金堀り衆をまとめ、金を始めとする鉱山の産出量を上手く増やしていけば、武田軍は強大になれるし、国も豊かになる。
 大久保はこの経理・財理面で重用されたようですが、信玄の死後、武田を離れる。
 こういうところ、面白いなあと思うんですよ。何だか腕一本で生きる職人みたいです。
 一匹狼、なんていうのとはちょっと違うかもしれないけど、何らかの才能で重用されていた者が、ワンマン社長が死んだり、引退したりすると、次代の社長って先代の優秀な部下を疎んじるでしょう?
 大体が昔から、「士は二君に仕えず」、なんて言葉があるくらいです。疎んじられる前に、きれいに身を引く。
 先代であろうが、他家に渡ることであろうが、一度仕えたら、己が命は君に捧げたのだ、と。
 ところがここがまた面白いところで、『二君に仕えず』、だからといっても情が優先することもある。
 田沼意次は、浪人の父が徳川吉宗に仕えたとき、連れられて上府した。だから、吉宗が亡くなったら、元の浪人に戻る筈だった。それを次代将軍が、自分に仕えよと言ってくれた。それで感激して・・・という話があります。
 そして、この大久保長安のように自分の腕、才覚を買ってくれた家康に、本来なら「二君に仕えず」だけれど、喜んで仕えるというような場合もあるんですねぇ。
 豊臣秀吉は各大名の優秀な家来を自分にくれ、と言ったことが度々あったようですから、まあ、大久保長安のように平気で「二君に仕える」、なんてのも、あの当時では別に問題にはならないのかもしれません。
 家康に仕えて、「大久保」の姓を賜った大久保長安。
 佐渡金山、生野銀山も任されたのだそうで、こりゃあ大変な信頼を得ている、という事になるのですが、何よりものことは既に全国的に名を知られていた石見銀山の奉行となったことです。
 当時、「佐摩」と呼ばれていた現在の大森町を中心とする辺り一帯が大森銀山なんですが、多い時は世界中の銀産出量の三分の一が日本。
 石見銀山だけで世界中の産出量の四分の一だったんだそうですから、これはとんでもない量です。
 そのとんでもない産出量の石見銀山。
 前に書いた通り、銀が山頂に露出していたのを掘り尽くし、打っ棄られていたのを、神屋寿禎が再発見したというべき状態で脚光を浴びました。
 それからの戦国時代、壮絶な争奪戦が繰り返されていたわけで、秀吉が押さえ、関ヶ原の戦いに勝った家康が電光石火の早業で支配して、やっと落ち着きを見せ始める。
 けれど、その時、既に産出量は落ち始めていたのです。
 そこに大久保長安がやってきた。そして、減って来ていた産出量をまた増やすことに成功した。
 一体どんな手を使ったのか。
 経理・財務の才覚が遺憾なく発揮されたようです。将に「腕一本」で。職人の面目躍如、と言ったところでしょうか。
 どこの世界でもそうでしょうが、利益を生むためには「利益」に直接着目(執着)してはならない。結果として利益が生まれるよう、人心を変えていくことが何よりも大事です。「士気が上がらない咄」
 ・労働条件を良くして「働かせる」か。
 ・収入を増やすことで「働く気にさせる」か。
 「銀の流出を厳しく制限する」のが普通です。
 ところが長安は入山料(採掘権料)を安くして、金掘りをし易くした。
 そうしておいて、産出量に応じて報酬も十分に支払った。
 砂金ならともかく、銀は鉱石そのままでは使えません。掘り出したものを、坑道の持ち主が奉行のところに持って行く。産出量に応じた報酬を受け取る。
 頑張って産出量を増やしたもの勝ち、です。
 そんなやり方だから、各自坑道の持ち主ごとに、より効率的な採取法を考案し、競い合いが盛んになる。
 高くなった技術を持って、銀山から佐渡の金山へ出稼ぎに行き、住み着く者も出てくる。
 今でも佐渡には「石見(いわみ)」を名乗る人がいるそうです。勿論、先祖が石見からやってきたという事です。

 「収入増加のために、人をやる気にさせる」
 大久保長安の才覚、「腕」、というのは、自身が金掘りの腕を持っているということではなく、「人をやる気にさせる腕(才能)」、そして効率よく銀鉱石を回収する腕だったと考えて良いでしょう。
 そのやり方は当時の人々に歓迎され、長安自身、多くの鉱山を任されていたのだけれど、石見銀山には何度も訪れ、自身、生前につくる「逆修塚」という墓も建てたそうです。
 逆修塚は領域内に何か所もあり、顕彰碑もあります。
 
 経済再建のやり方って、いつの時代も同じみたいですね。
 まずは「その気になる」こと、です。
 「財布のひもを固く締めて、物を買わない。とにかく働く。」
 これで何とかなる、と思っても実際はそうはいかない。
 建て直し、ってのは、買うのを辛抱するのではなく、欲しいものを手に入れようと小さな目標を次々に設定して、がむしゃらに働くのが一番、みたいです。
 初代石見銀山奉行大久保長安。
 彼の開いた大久保間歩(まぶ)は、石見銀山最大の坑道で、「手掘りでここまでやるのか」と感心するくらいのものです。
 それを「欲のかたまり」と見るか、
 それとも「やる気、努力の夢のあと」と採るか。
 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする