
『人間失格』-4
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自分があの京橋のスタンド・バアのマダムの義侠心にすがり、(女の人の義侠心なんて、言葉の奇妙な遣い方ですが、しかし、自分の経験によると、少なくとも都会の男女の場合、男よりも女の方が、その、義侠心とでもいうべきものをたっぷりと持っていました。男はたいてい、おっかなびっくりで、おていさいばかり飾り、そうして、ケチでした)あの煙草屋のヨシ子を内縁の妻にすることができて、そうして築地、隅田川の近く、木造の2階建ての小さいアパートの階下の1室を借り、ふたりで住み、酒は止めて、そろそろ自分の定まった職業になりかけてきた漫画の仕事に精を出し、夕食後は二人で映画を見に出かけ、帰りには、喫茶店などに入り、また、花の鉢を買ったりして、いや、それよりも自分を心から信頼してくれているこの小さな花嫁の言葉を聞き、動作を見ているのは楽しく、これは自分もひょっとしたら、今にだんだん人間らしいものになる事ができて、悲惨な死に方などせずに済むのではなかろうかという甘い思いを幽かに胸にあたためはじめていた矢先に、堀木がまた自分の眼前に現れました。