◎ 自分ひとりで出来ることなど、毎日の仕事や生活の中では、ほんの少しに限られるわけだが、そのことをしっかりと会得できていない若者が増えているように感じる。先日、東京駅(上野方面の山の手線、京浜東北線)のホームの喫煙コーナーで、たばこを吸うのに100円ライターのガス切れで困っている若者がいた。通りかかった私は、「火を貸すタイミング」を逃してしまった。
◎ その若者は周辺をキョロキョロ見回しながら、掌でライターを暖め、カチ、カチッ、カチ、カチッと、たばこを口に挟んだ格好で何度も火をつけようと試みていた。私はそれを見ながら、次のようなことを推理していた。
(1)使い捨てライターのガスの残量は日常的にチェックしておくのが喫煙者の常識であること。
(2)何も自分が近づいていって火を貸してあげなくても、そばにいる誰かが同じ喫煙者として火を貸してあげるはずだと確信していたこと。
(3)彼も現実的に困っているならば、そばにいる人に「火を貸して下さい」と話かければいいのに、と思ったこと。
◎ しかし、ホームに電車が入ってきたら、彼はたばこを吸わないまま、その電車に乗り込んでいってしまったのである。同じ喫煙者としては、大いに悔やんだのであるが、「今の若者は誰かに助けを求める」という選択肢を持っていないのか、「困った人がいたら、自分の出来る範囲で助ける」という社会的な雰囲気が薄くなっているのか、その背景には「広範囲にコミュニケーション能力の欠場という問題」が横たわっているのだろうか、と痛感させられたのである。「他人と自己を区別し、相互浸透を恐れる」といったことが、あらゆるシーンで広がっているのかも知れない。(2005 11/30)