8月22日、突然のことでした。東洋大学校友会神奈川県支部の関口俊一理事が急逝されました。
悲しみの中で、脳裏に浮かんだのは支部会報No.49号に寄せられた「退任あいさつ」でした。まさに、関口さんが、私たちに宛てた遺稿とも受け取れる内容です。
長文ではございますが、支部会報から転載させていただきます。写真は、昨年の支部総会で感謝状を手に、素晴らしい笑顔の関口さんです。
【退任あいさつ】
今期をもって副支部長兼事務局長を退任することになりました事務局長の関口です。
3期10年の長きに亘り何とかやってこられたのも、皆様の厚いご支援ご協力の賜物と厚く御礼申し上げます。
今振り返ると、70歳まで仕事一筋に企業戦士として頑張ってきた自分が退職した途端、ただの人となったことに気づき、自分の人生は何だったのかを考えさせられました。
真面目だけが取り柄で仕事が趣味と強がっていた自分が馬鹿らしく思えてきたのです。無芸無趣味のままではすぐにボケてしまうと危機感を持ち、地元のいくつかのサークルに入会し、新しい仲間作りに励みました。違う世界を知り、いろいろな人生観・人間性を知りました。
一方、現役時代から中学・高校・大学の同期生や部活の仲間と最小限の付き合いをしていましたので、これからはこの仲間たちとの交流をもっと深めようと、積極的に会合の場を作り参加を呼びかけました。
同期の仲間はいくつになっても当時のままです。過ごしてきた時代が同じなので団結力も強いです。要するにいろいろな人との出会いで、本来の自分と異なる一面の発見と、変わることの出来ない元々の自分を再確認したかったのです。
前置きが長くなりました。神奈川県支部に初めて顔を出したのは支部創立50周年記念総会の時(H9/かながわ労働プラザ)です。
それまでは現役だったこともあり、校友会費は納めていましたが、支部行事には一切参加していませんでした。大学の仲間と付き合っていたのは音楽部のバンド仲間だけ。案内状にアトラクションで同じ音楽部仲間の混声合唱団が出演するとあったので、それにつられて出席したのです。
知り合いのいない会議やパーティーでの自分の惨めさをよく知っているので、この時もそうでした。とりわけ懇親会は全く蚊帳の外、出入り口に一番近いテーブルで、似たような人たち4~5人で立っていた記憶があります。
唯一話しかけてきた人は、当時議員秘書だった吉田大成氏でした。これに懲りて、二度と総会や行事には定年まで出席していません。
そんな自分がなんで支部役員になったかというと、高校時代からの同期で友人でもある城東支部の当時支部長だった大滝恵三氏(S35経済)から、時間があるなら校友会活動に積極的に参加するようにとアドバイスを受け、相模地区会の行事か総会に参加したのが始まりです。
そこで落合直文氏(S35経済)と懇意になり、支部行事にも参加するように薦められ、初めて出席したのが大学の福利厚生施設である箱根保養所での宿泊付き研修会でした。ここで大勢の役員の方と知り合うことになり,後に支部長となる高原正人氏と親しくさせて頂くことになります。
それを機に、相模地区選出の常任委員(当時の役職名)となり、支部会議に出席させて頂くことになりました。事務局長に就任したのは役員なって1年後くらいの時です。役員改選期があり、私が推薦した方が事務局長に就任したのですが、間もなく体調不良となり職務返上を申し出たことから、推薦した立場上引き受けざるを得なくなって、ワンポイントリリーフのつもりで就任したのがきっかけです。
同時に、業務引継ぎの行き違いから会計業務も引き受けることとなり、慣れぬ仕事に苦労しました。わが身の性格上、手抜きの出来ない性分で徹底してのめり込みました。お陰で家内から「現役時代より仕事している。ボケ防止にちょうどいい」と皮肉られる始末です。
ワンポイントリリーフのはずが2選3選となり、いつしか80歳を超えていました。さすがに疲れやすく物忘れやミスも多くなり、仕事に支障が出始めたのでこの辺が潮時かと、一昨年ごろから皆様に辞任のリークを流し始めました。
そして、昨年の総会で次期新体制の人事案が承認されたことを機に。会計業務を田中茂氏が引継ぎ。事務局業務も年度内にすべて引継ぎ完了しました。4月からは宮崎縣氏が事務局長就任です。
お届けした支部会報49号も新しいスタッフによって企画構成され制作されたものです。
会員の皆様、どうか新体制にも変わらぬご支援ご鞭撻を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。
至らぬ事務局長に、温かいたくさんの叱咤激励のお言葉を賜り、感謝するとともに厚く御礼を申し上げます。本当に本当に、長い間ありがとうございました。
2022年3月31日
前事務局長
関口俊一(S36法)