
【173ページ】
カントは感性と悟性を区別すること、いいかえれば、「感じられたもの」と「考えられたもの」を区別することを貫いています。なぜなら、それらを区別しない思考、たとえば、或るもの(たとえば神)が「考えられる」ということからただちにそれが「在る」ということを論証してしまうような思考は、形而上学になってしまうからです。
カントは感性と悟性を鋭く切断しました。ゆえに、彼は、道徳性を道徳感情によって基礎づけようとしたハチソンに反対しました。カントの考えでは、道徳法則は理性的なものであり、感情あるいは感性には道徳性はない。「道徳感情」があるとしたら、それは道徳法則をすでに知っていることから生じるのであって、その逆ではない。しかるに、あらかじめ感情に理性的なものがあるというのは、道徳(理性)の感性化=美学化です。
カントの考えでは、感性と悟性は、想像力によって綜合されます。しかし、いいかえると、それは、感性と悟性は想像力によってしか綜合されないということです。
【174~175ページ】
悟性と感性の分裂ということは、具体的にいうと、ひとが自分でそう考えているのとは違った在り方を現にしているということです。たとえば、資本制社会では誰でも平等だと考えられているのですが、現実には不平等である。とすれば、悟性と感性の分裂が現にあるわけです。その分裂を想像力によって超えようとすれば、文学作品が生まれる。文学による綜合が「想像的」なものだということは、誰も否定しないでしょう。
しかし、ネーションもそのような意味で「想像的」な共同体なのです。ネーションにおいては、現実の資本主義経済がもたらす格差、自由と平等の欠如が、想像的に補填され解消されています。(中略)
私は最初に、いわゆるネーション=ステートとは、資本=ネーション=国家であるとのべました。それは、いわば、市民社会=市場経済(感性)と国家(悟性)がネーション(想像力)によって結ばれているということです。これらはいわば、ボロメオの環をなします。つまり、どれか一つをとると、壊れてしまうような環です。
(ken) 173ページの「感情あるいは感性には道徳性はない」というカントの言葉にも刺激を受けますね。(つづく)