村上春樹さんの小説から
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そして前腕の内側を手のひらでごしごしとこすった。そこには静脈があおく浮かび上がっていた。あまり健康そうには見えない血管だ。酒と煙草と不規則な生活と文芸サロン的陰謀に、長年にわたって痛めつけられてきた血管だ。小松はハイボールの残りを一息で飲み、残った氷を宙でからからと振った。
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小松はカウンターに向かって空グラスを上げ、三杯目のハイボールを注文した。新しい煙草を口にくわえた。
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「でも小松さん、そうしようと思って、そんなにすんなりと元あった生活に復帰できると思いますか?」
「努力するしかあるまいよ」と小松は言った。そしてマッチを擦って煙草に火をつけた。「天吾くんには何か気にかかるところがあるのか?」
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出勤の時間が終わると、アパートを出入りする人間はほとんどいなくなった。子供たちの賑やかな声も消えた。牛河はリモコンのシャッターを手から離し、壁にもたれてセブンスターを吸い、カーテンの隙間から玄関を眺めた。
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ふかえりは通りに出ると、足早に駅の方に向かった。一度も後ろを振り返らなかった。牛河は日焼けしたカーテンの隙間からその後ろ姿を見送った。彼女の背中で左右に揺れる緑色のショルダーバッグが見えなくなると、床を這うようにカメラの前を離れ、壁にもたれた。そして体に正常な力が戻るのを待った。セブンスターを口にくわえ、ライターで火をつけた。煙を深々と吸い込んだ。しかし煙草には味がなかった。力はなかなか回復しなかった。
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「うちの(安達クミの)お父さんは漁師だったの。 50歳になる前に死んじゃったけど」
「海で亡くなったの?」
「違う。肺癌で死んだ。煙草の吸いすぎ。なぜかは知らないけど、漁師ってみんなすごいヘビースモーカーなんだよ。身体中から煙をもくもく出してるみたいな」
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サンドイッチを食べ終え、コーヒーを飲み終えると、牛河は頭を現実の位相に戻すために、煙草をゆっくり一本吸った。自分のここで何をやらなくてはならないのかを、頭の中で再確認した。
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11時まで牛河は玄関の監視を続けた。それからひとつ大きくあくびをして、一日の仕事を終えることにした。ペットボトルの緑茶を飲み、クラッカーを何枚か食べ、煙草を一本吸った。洗面所で歯を磨くついでに、大きく舌を出して鏡に写してみた。
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「うちのお父さんもここで焼かれたんだよ」と安達クミは言った。「一緒に来た人たちはみんな、ひっきりなしにタバコを吸っていた。おかげで天井のあたりにぽっかり雲が浮かんでいるみたいだった。なにしろそこにいるほとんどが漁師仲間だったからね」
天吾はその光景を想像した。日焼けした一群人々が、着慣れぬダークスーツに身を包み、みんなでせっせとタバコを吹かしている。そして肺癌で死んだ男を悼んでいる。