十二支の手ぬぐいで、小物入れを手縫いしました。
以前、三田の春日神社に著名人の言葉を記したしおりが置いてあり、その中の高杉晋作の辞世「おもしろきこともなき世を(orに)おもしろく」を持ち帰り、机の透明シートで目に入るようにしていたことがありました。
文久2年(1862年)、高杉晋作は「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば」と考え、外国公使がしばしば武州金澤(金沢八景)で遊ぶからそこで刺殺しようとします。
同志(久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、志道聞多、松島剛蔵、寺島忠三郎、有吉熊次郎、赤禰幹之丞、山尾庸三、品川弥二郎)たちと相談し、決行の日時を決定します。しかし、久坂玄瑞が土佐藩の武市半平太に話したことから、前土佐藩主・山内容堂を通して長州藩世子・毛利定広に伝わり、「無謀である」と制止され実行に到らず邸内に謹慎を命ぜられました。
大仏次郎さんの「天皇の世紀6」を読みながら、高杉晋作の負けず嫌いな行動力と統率力、カリスマ性を再認識させられました。自らの信念を「男子と言うものは困ったと言うことを決して言うものではない。これは自分が父から平生やかましく言われたことであるが、困ったと言う時は死ぬ時である。どんな難局に處しても、何困らぬと言う気概でやっておると、自づと通づるものである。どんな難局にも必ず逃れ路がある。行き当れば曲り路ありと言う訳である。断じて困らぬと言う気概でやっていれば必ず道はつくものである。だから困ったという一言だけは決して口にしてはいけない」と述べており、確かにそうだなぁと考えさせられました。
また、高杉晋作は当時の志士たちの多くがそうであったように、切腹や斬首、自害で命を落とし、生き延びたとしても、一時期の謹慎や投獄、島流しになっています。高杉晋作も、文久4年(1864年)1月に脱藩して京都へ潜伏していました。桂小五郎の説得で2月には帰郷しますが、脱藩の罪で野山獄に投獄され、6月には出所して謹慎処分となりました。7月、長州藩は禁門の変で敗北した上に朝敵となり、来島又兵衛は戦死し久坂玄瑞は自害しました。
I once found a bookmark with words of famous people at Kasuga Shrine in Mita, and among them, I took home Shinsaku Takasugi's resignation, "Make the world (or) interesting without interesting things" and used a transparent sheet on my desk so that I could see it.
In 1862, Takasugi Shinsaku wrote, "The Satsuma clan had already achieved the goal of expelling the barbarians by slaughtering them at Namamugi, but our clan is still preaching a combination of the public and the military. The Satsuma clan has already achieved the goal of expelling the barbarians at Namamugi, but our clan still preaches a combination of public and private arms. If the clan government cannot carry this out," he thought, and decided to stab a foreign envoy to death in Kanazawa (Kanazawa Hakkei), where he often went to play with foreign ambassadors.
After consulting with his comrades (Kusaka Genzui, Yamato Yahachiro, Nagamine Kurata, Shido Menta, Matsushima Gozo, Terajima Chuzaburo, Ariyoshi Kumajiro, Akane Mikinojo, Yamao Yozo, and Shinagawa Yajiro), he decided on a date for the execution. However, Genzui Kusaka told Takeichi Hanpeita of the Tosa Domain, which was conveyed to Sadahiro Mori, a son of the Choshu Domain, through Yodo Yamauchi, the former lord of the Tosa Domain, who stopped them, saying that it was reckless.
While reading Mr. Jiro Osarahi's "The Emperor's Century 6," I was reminded of Takasugi Shinsaku's competitive spirit, leadership, and charisma. He said of his own beliefs, "Men are never to say that they are in trouble. This is something my father used to say to me in his own words, "When you are in trouble, it is time to die. If you keep the mindset that you will never be in trouble, no matter what kind of difficulty you encounter, you will naturally come to understand this. There is always a way out of any difficulty. When you get to the end of the road, there is always a turn." If you keep the determination that you will never be in trouble, you will always find a way out. Therefore, we should never say that we are in trouble.
Takasugi Shinsaku also lost his life by seppuku (ritual suicide), beheading, or suicide, as most of the patriots of the time did, and even if he survived, he was under house arrest for a period of time, imprisoned, or exiled to the island. Takasugi Shinsaku, too, deserted the clan in January 1864 and went into hiding in Kyoto. In July, the Choshu domain was defeated in the Forbidden Rebellion and became the enemy of the Choshu government, and Matabei Kurushima was killed in battle and Genzui Kusaka committed suicide.
野山獄に投獄された時に詠んだ高杉晋作の歌は、画像のような詩吟のテキストとして残り、今でも吟じられています。
The poem Takasugi Shinsaku composed while imprisoned in Noyama Jail remains as the text of a shigin poem, as shown in the image, and is still recited today.
NHK さんの『半藤さんが教えてくれた教訓』を見ていました。半藤さんの言葉で印象に残った言葉をメモしたので、投稿させていただきます。
▼日本人のレベル全体が下がっているから、リーダーのレベルが下がってる。
▼とにかく、もう少し勉強しなくちゃいけないし、外に向かって発言していかなくてはいけない。戦争は良くないですよ、それだけでいい。そんな気概を持て!
▼勉強(教育)が経済に優先されるべきだ。まだ間に合うかも知れない。
▼絶対はない。3.10東京大空襲で命拾いをして光景と、3.11の原発事故後の光景は同じで、「安全神話は底知れぬ無責任の代名詞」なのだ。
▼しかし、戦争だけは絶対にしてはいけない。歴史は年号を覚えるという無味乾燥なことではなく、出来事の相互関連性を想像することなのですね。
先日、久しぶりにお酒を抜きました。ビールとか焼酎とかワインを飲まないと、元気が出なくて後ろ向きな感じになるのですが、休肝日は必要ですね。伊達巻の味がして、とても美味しかったです。
鹿児島のさつま揚げ、最後の一つをつまみに焼酎の緑茶割りを美味しくいただきました。
また、おふくろ手縫いの綿入半纏の右裾にほころびがあったのを放置しておいたまま、冬の部屋着と寝巻きにしていたので、ほずれが大きくなり綿が見えるようになり、やっと補修しました。
巾着とファスナー付きのポーチ、合計9個、手縫いしてみました。非常事態宣言期間中、まとめて縫っておこうと思います。
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