ブログを書こうと、インターネットを開いた私の目に「立松和平死去」
の文字が飛び込んできました。
不意打ちをくらったような、立松さん死に「やっぱり人は死ぬんだ」
という呆れるような言葉しか浮かんできませんでした。
病院で亡くなったとのことですが、それも立松さんらしくないなと
思いました。
星野道夫さんが亡くなった時も、ショックを受けましたが、ある意味
納得できる死でした。
人は納得して「死」を受け入れるということを聞いたことがありますが…
立松さんはどうだったのでしょうか。
立松さんの死を知り、急に谷川俊太郎さんの「祝魂歌」が読みたくなり
ました。
谷川さんは、「死は行き止まりではなく、その先にまだ何かあるのでは
ないかと考えるようになっています。
からだから解放された魂というものがあるのではないか、誰もが心の
奥底でそれを知っているのではないか。
もしそうだとしたら、魂の新しい旅立ちを祝うこともできるのでは
ないか、それが残された者の嘆きを少しでも軽くすることができる
のではないか。」と書いています。
私も子どもが亡くなった翌年、富士山での護摩焚きに行った時、
夜空に舞い上がる壮大な火の粉を見た時、魂とは自由なもの
なのかもしれないと思いました。
立松さんの魂も、今自由に宇宙を駆け巡っているのかもしれません。
プエブロ族の古老の詩を、立松さんに捧げます。
今日は死ぬのにもってこいのだ
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている
すべての声が、わたしの中で合唱している。
すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。
あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。
わたしの畑は、もう耕されることはない。
わたしの家は、笑い声に満ちている。
子どもたちは、うちに帰ってきた。
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。
の文字が飛び込んできました。
不意打ちをくらったような、立松さん死に「やっぱり人は死ぬんだ」
という呆れるような言葉しか浮かんできませんでした。
病院で亡くなったとのことですが、それも立松さんらしくないなと
思いました。
星野道夫さんが亡くなった時も、ショックを受けましたが、ある意味
納得できる死でした。
人は納得して「死」を受け入れるということを聞いたことがありますが…
立松さんはどうだったのでしょうか。
立松さんの死を知り、急に谷川俊太郎さんの「祝魂歌」が読みたくなり
ました。
谷川さんは、「死は行き止まりではなく、その先にまだ何かあるのでは
ないかと考えるようになっています。
からだから解放された魂というものがあるのではないか、誰もが心の
奥底でそれを知っているのではないか。
もしそうだとしたら、魂の新しい旅立ちを祝うこともできるのでは
ないか、それが残された者の嘆きを少しでも軽くすることができる
のではないか。」と書いています。
私も子どもが亡くなった翌年、富士山での護摩焚きに行った時、
夜空に舞い上がる壮大な火の粉を見た時、魂とは自由なもの
なのかもしれないと思いました。
立松さんの魂も、今自由に宇宙を駆け巡っているのかもしれません。
プエブロ族の古老の詩を、立松さんに捧げます。
今日は死ぬのにもってこいのだ
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている
すべての声が、わたしの中で合唱している。
すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。
あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。
わたしの畑は、もう耕されることはない。
わたしの家は、笑い声に満ちている。
子どもたちは、うちに帰ってきた。
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。