姜尚中さんの「母(オモニ)」を読んだら、三浦綾子さんが
小林多喜二の母を書いた「母」という小説を思い出しました。
姜さんの母(オモニ)も多喜二の母も、働き抜いた母でした。
そして、生活の真ん中にしっかりと立っていました。
私は、家事の真ん中には居るけれど、生活の真ん中にいるとは
とても、言えません。
それでも、息子にとっては母なのです。
しかし、いのちを授かり、いのちを生み育む母の原点は
こんな私の中にも、しっかりとありました。
子どもが倒れた時、私は心から自分のいのちと引き換えに、
この子を助けてほしいと祈り続けました。
自分のいのちがなくなることなど、少しも怖くはありませんでした。
子どもは、自分のいのちに替えても守りたい存在なのです。
そして、子どもはいくつになっても、子どもなのです。
息子を亡くし、何も出来なくなった私の処へ、70を過ぎた母が
毎日のように通って来てくれました。
主人が「悪いですね。」と言うと母は「娘ですから、娘ですから」を
繰り返していました。
孫を亡くした悲しみよりも、娘の私のことを心配していてくれたのです。
でも私は、母が次男を呼ぶ時に、よく間違えて亡くなった長男名前を
呼ぶので、母の気持ちよりも、そのことに苛立っていました。
いつか母に謝り、そして有難うと言わなければ…
親というのは、特に母親というのは、いくつになっても自分の
ことより、子どもの幸せを願うものなのかも知れません。
多分、私がもっと歳を重ね、自分のことがおぼつか無くなっても
子どもの幸せが、自分の幸せだと思っていると思います。
母とはそういうものなのです。きっと…
小林多喜二の母を書いた「母」という小説を思い出しました。
姜さんの母(オモニ)も多喜二の母も、働き抜いた母でした。
そして、生活の真ん中にしっかりと立っていました。
私は、家事の真ん中には居るけれど、生活の真ん中にいるとは
とても、言えません。
それでも、息子にとっては母なのです。
しかし、いのちを授かり、いのちを生み育む母の原点は
こんな私の中にも、しっかりとありました。
子どもが倒れた時、私は心から自分のいのちと引き換えに、
この子を助けてほしいと祈り続けました。
自分のいのちがなくなることなど、少しも怖くはありませんでした。
子どもは、自分のいのちに替えても守りたい存在なのです。
そして、子どもはいくつになっても、子どもなのです。
息子を亡くし、何も出来なくなった私の処へ、70を過ぎた母が
毎日のように通って来てくれました。
主人が「悪いですね。」と言うと母は「娘ですから、娘ですから」を
繰り返していました。
孫を亡くした悲しみよりも、娘の私のことを心配していてくれたのです。
でも私は、母が次男を呼ぶ時に、よく間違えて亡くなった長男名前を
呼ぶので、母の気持ちよりも、そのことに苛立っていました。
いつか母に謝り、そして有難うと言わなければ…
親というのは、特に母親というのは、いくつになっても自分の
ことより、子どもの幸せを願うものなのかも知れません。
多分、私がもっと歳を重ね、自分のことがおぼつか無くなっても
子どもの幸せが、自分の幸せだと思っていると思います。
母とはそういうものなのです。きっと…