昨日は「書」のお稽古で、臨書作品に取り組みました。
いつもやっている中国の古い書の臨書を、作品にしようというものです。
紙も6枚と制限があり、その6枚で作品にしようという試みでした。
いつもと違う高級な柔らかい和紙です。
この紙と向き合った時、今までのことはすべて忘れ、初めて筆を
持つような気持ちになりました。
そして書き終わった時に、「書」とは全く関係のない気づきが
与えられた気がしました。
それは、 初女先生の言っている「聴く」という事の気づきでした。
先生は、「話したい人は沢山いるけれど、聴く人がいないのよね」と
言われています。先生の「聴く」という事は、自分の考えや意見を
入れず、真っさらな気持ちで聴き、その人がどんな考えであろうと
一旦はそれを受けるというものだと、私は思っています。
初女先生は、人は自らの中に答えを持っているという確信を持って
おられます。
ですから、先生は一心に聴き、その人が自分の中に持っている答えに
気づくことを待たれるのです。
「聴く」ことをとても大切にされています。
でも、この聴くが本当に難しいのです。
私は、自分には到底できないと思っていました。
そんな私に、昨日の臨書作品の体験が、大きな気づきを与えて
くれたです。
紙を前にした時、今までのことをすべて忘れて向き合い、そしてその紙
に墨ががしみ込んでいくのを見ていたら、墨のにじみも含めすべてを
吸い取る(受け入れる)和紙のすごさを感じました。
その時、初女先生の「聴く」ということが、私の中でこの「書」の
体験と結びついたのです。
頭で考えていても分からなかったことが、全く関係のない「書」から
気づいたのです。
と言っても、果して自分が初女先生の「聴く」に近づけるかどうかは
分かりませんが、今迄気がつかなかった何かを感じた!と思いました。
難しいことは、頭で考えず体験を積み重ね自分のものにしていくと
いうことが、私の出来る事かなと思いました。
初女先生の「聴く」に一歩でも近づきたいという思いを、抱きながら…
いつもやっている中国の古い書の臨書を、作品にしようというものです。
紙も6枚と制限があり、その6枚で作品にしようという試みでした。
いつもと違う高級な柔らかい和紙です。
この紙と向き合った時、今までのことはすべて忘れ、初めて筆を
持つような気持ちになりました。
そして書き終わった時に、「書」とは全く関係のない気づきが
与えられた気がしました。
それは、 初女先生の言っている「聴く」という事の気づきでした。
先生は、「話したい人は沢山いるけれど、聴く人がいないのよね」と
言われています。先生の「聴く」という事は、自分の考えや意見を
入れず、真っさらな気持ちで聴き、その人がどんな考えであろうと
一旦はそれを受けるというものだと、私は思っています。
初女先生は、人は自らの中に答えを持っているという確信を持って
おられます。
ですから、先生は一心に聴き、その人が自分の中に持っている答えに
気づくことを待たれるのです。
「聴く」ことをとても大切にされています。
でも、この聴くが本当に難しいのです。
私は、自分には到底できないと思っていました。
そんな私に、昨日の臨書作品の体験が、大きな気づきを与えて
くれたです。
紙を前にした時、今までのことをすべて忘れて向き合い、そしてその紙
に墨ががしみ込んでいくのを見ていたら、墨のにじみも含めすべてを
吸い取る(受け入れる)和紙のすごさを感じました。
その時、初女先生の「聴く」ということが、私の中でこの「書」の
体験と結びついたのです。
頭で考えていても分からなかったことが、全く関係のない「書」から
気づいたのです。
と言っても、果して自分が初女先生の「聴く」に近づけるかどうかは
分かりませんが、今迄気がつかなかった何かを感じた!と思いました。
難しいことは、頭で考えず体験を積み重ね自分のものにしていくと
いうことが、私の出来る事かなと思いました。
初女先生の「聴く」に一歩でも近づきたいという思いを、抱きながら…