これもノートの落書きです。定番どおり、小さなヴィーナスを巻貝の上に載せてみました。腰のまわりに持ってる布は、ボッティチェリの時の女神が持ってるマントを意識しております。
なかなかにかわいいでしょ。
一時期、女の子の裸を描くのに抵抗を感じていた頃があったのですが、これくらいなら、とくにもんだいはないかと、発表して見た次第です。
ボッティチェリのヴィーナスなら、顔の人格性が弱いから裸になってくれても抵抗はないけれど、マネのヴィクトリーヌ・ムランなら、すごく抵抗がある。なんでって、絶対裸を見たくない人の裸を見ちゃったような気がするから。考えてもごらんなさいよ。いるでしょ。いくらきれいな人でも、ヌードという題材にしてみたくない人。
マネの失敗は、絶対裸にしちゃいけない人を裸にしちゃったからなんだと思う。つまり実在の、魂ある女性を裸にしてしまったから。どこにでもいる無人格的女性じゃない、形だけの女性じゃない、知性も教養もある、重い精神の手触りを感じる女性を裸にしてしまったから。つまりは、ほんまに女神を裸にしてしまったのです。
この落書きは、顔を丸くして単純化して、お人形みたいにしてるから、裸でもなんとなく平気でしょう。
とにかくね、女性の裸は、ほんとはみちゃいけないものなのよ。でもね、あんまりにかわいくて、きれいだから、どうしても、なんとかして、おもしろいものにして、みてみたい。そういう要求が、芸術家たちに、たくさんの裸婦を描かせてきたのですな。
しかし、世の中にはいろんな裸婦があるけれど、ある雑誌で、クールベの「世界の起源」をみた時はショックを受けました。これも芸術なら許されるのか。いったい芸術とはなんだろう。
とにかく、人間は、おもしろいことをやりたい。自分の好きなことをやりたい。んだな。それが、おもしろいんだなあ。
女性の裸体は、この上なく美しいものです。この美しさをこれからどう表現していくか。そいうのを考えるのもおもしろいな。わたしもいくらか小品を書いてますけど。確かに美しいものを描くのは楽しい。