世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

棚木那野

2015-08-13 05:56:23 | 月夜の考古学・本館


    死の河の森


 これは、世界がまだ赤ん坊のように無垢だったころの話だ。あるところに、若い王と王妃がいた。王は聡明で、王妃は美しく、国は豊かで、人々は温和だった。これは、信じられないほど、世界が明るかった頃の話だ。

 死の河を超えて
 来れ我が元に
 絶望のなせる業ではなく
 自らの王として

 ある日、王が書斎で書き物をしていたとき、ふと、きれいな若い女の歌声が、耳に入ってきた。彼は、ペンを持った手をとめて、窓の外を見た。よく晴れた水色の空に、羊色の雲が優雅に浮かんでいる。
(やれやれ、しょうがない人だ。よほどあの旋律が気に行ったのだな)
 歌声の主は、彼の若い妻であり、この国の王妃だった。ひと月前に結婚したばかりのなりたての王妃は、儀式の時だけに歌う習わしの代々王家に伝わって来た歌を、こんな風に軽々と口ずさんでしまう。
 彼は机の上に広げていた書物を閉じると、明るい日差しのさしこんでいる螺旋階段を降りて、城の中庭に出た。
 王妃は、中庭の芝生に座って、歌を口ずさみながら刺しゅうをしていた。彼女の傍らには、白樺に似た一本の細い灌木が植えられてあり、それは柔らかな木陰を作って彼女を包んでいた。
 王妃は、夫の姿を認めると、はっと口をつぐみ、刺しゅう枠をおいて立ち上がった。そしていたずらを見つけられた子供のように目を伏せた。
「ごめんなさい、つい、口から出てしまったのですわ。だって、とてもきれいな歌なんですもの」
 王は何も言わず、彼女に歩み寄った王妃は叱られてしまうと思って、思わず首をすくめた。王は、王妃の肩に手をかけると、傍らの気を指さして、やさしく言った。
「この木のいわれを、まだあなたに話していませんでしたね」
「え?」
 王妃はきょとんとして、王の顔を見上げた。
「この木は、我が王家に伝わる大切な宝なのです」
 王は木の幹をいとおしげになでながら、こずえを見上げた。
「昔、まだこの国がそれほど豊かではなかったとき、一度、大変な飢きんが国を襲ったことがありました。たくさんの人々が飢え死にしてしまい、それを悲しんだ我が王家の祖先が、神に会うために、死の河のほとりまで旅をしたのですよ」
「死の河?」
「ここから、南に向かって五百日、次に東に七百日歩いた所にあると言われる、神が住んでおられる国と、人間の住んでいる国を隔てている恐ろしい河のことです。人はみな死ぬとき、一度だけその河を超えるといわれるのですが、生きている人間がそこにたどりつくのはひどい難行なのです。ですが、祖先の王は幾多の苦難を超えてそれをなしとげました。そして神は、王の献身に報いるために、この神聖なる木を、この国の永遠の豊かさと幸せのしるしとして王に与えたのです」
「まあ」
「ですから、この木がここにあるかぎり、国は永遠に豊かで、平和なのですよ」
 日が陰ってきたので、やがてふたりは城に戻り、いつものように塔に登った。当のてっぺんのバルコニーに出ると、国中が、一望に見渡せるのだ。西に、静かで美しい湖、東に美しい緑に覆われたなだらかな一群の丘、北には険しい山があり、そこから流れる河が、いろとりどりのモザイクのような街並みを縫って走りながら、湖に注いでいる。南には果てしない平原が広がっている。
 この風景を見るたびに、王は思う。この豊かさ、この美しさ、この幸せ、これこそが、正しいのだ。いったい、この世界のどこに不幸せというものがあるのだろう? どおに醜く汚いものがあるだろう。いや、ありはしない。神との約束を守っている限り、この幸せは永遠に続くだろう。それこそが、我々人間が真実をつかんでいる証拠なのだ。
 王は、王妃の美しさと、国の豊かさと同じように、己の正しさを信じていた。
 さて、ある夜のことだった。窓からさす月の光があまりに明るいので、王はなかなか寝つかれず、何度も寝返りを打った。
 このままではとても眠れそうにないので、王は仕方なく、眠くなるまで中庭の散歩でもしようと、起き上がった。
 庭に出ると、白く丸い月が、しんと空の真ん中に座していた。夜の闇にミルクを混ぜたような静かな光が、中庭を照らしていた。夜気の中を、王は芝生を踏みしめながら、ゆっくりと歩いた。ふと、王は、どこあらか、しゃり、しゃり、という、妙な音がするのを聞いた。
(おや? なんだろう)
 彼はその音がするほうに耳をすました。風の音ではなさそうだ。虫の声とも違う。何やら、まるで、何かがものを食べているような……。はっと、王は、その音があの聖なる神の木の根元の方から聞こえることに気がついた。
(何てことだ! さてはどこかの無作法な畜生が、神の木に悪さをしているに違いない!)
 王はとさに、腰につけている宝剣に手をかけた。それは護身というよりも、お守りがわりに王がいつも身につけているものだった。彼は芝生に身を伏せると、できるだけ音をたてないように神の木に近づいた。近づくに従って、音ははっきりと聞こえてきた。
 不意に、風が木の枝をゆらし、その音の主の姿を月光の下にさらし出した。それを見た時、王は息を飲んだ。
 それは、黒く干からびた肌をした、見るに堪えぬ醜い老婆だった。背は五つの子供より高くなく、異様に長い骨と皮だけの腕が、神の木の根元あたりの土を掻きむしっている。王は背筋を冷たいものが走るのを感じた。あんな汚らしいものが、神聖なる神の木を汚すことはど、許せるはずがなかった。
「この化け物め!」
 王はそう叫んで立ち上がるや否や、宝剣を抜いて老婆に切りかかった。老婆には声をあげる暇さえなかった。あっという間に、王の剣は老婆の首を切り裂き、月光の下に、干からびたリンゴのような小さな老婆の首が転がった。そして、不思議なことに、王が冷や汗を拭っている間に、老婆の遺骸はゆっくりと月光に溶けるように消えていった。王は、しばらく夢でも見ていたのかと、その場に立ち尽くした。
 翌朝は、朝から雨でも降りそうな、灰色の陰気な天気だった。昨夜眠れなかったせいか、つきつきと頭が痛む。王は寝台から起き上がると、いつものように窓辺によって、中庭の聖なる木に目をやった。
 とたんに、王は声にならぬ声をあげた。昨日まで、あんなに生き生きと美しかった木が、葉をみんな落とし、骨のように痩せた幹が、からからに乾いて、朽ちていた。
 王はあわてて中庭に降りた。そしてそのあまりの無残な姿を間近にして、よろよろとその場にくずおれた。
「あああ、これはどうしたことだ、一体、何で、こんなことが起こったのだ?」
 はっと、彼は昨夜の出来事を思い出した。
「そうだ、きっとあの老婆のやらかしたことに違いない。ああ、でもどうすればいいんだ。このままでは、神のご加護が失われてしまう」
 王の予感は、その日の昼ごろには、現実になった。東の丘の木々が、一夜のうちにすべて枯れてしまったというのだ。次の日の朝には、北の山から流れる河が干上がってしまったという知らせが入り、その次の日には、湖が次第に小さくなっていているとの知らせが届いた。
 不安のあまり、城の門の前に波のように国民が押し寄せた。だが、王にはどうすることもできなかった。まるで、手のひらを返したように、神の恵みが拭い去られ、国はひと月の間に見るも無残な姿になった。飢きんが国じゅうを襲った。たくさんの国民が飢えて死に、あるいは生きることに絶望して自ら命を絶った。
 だが、王にできることはと言えば、城の中でただ右往左往することだけだった。見るに見かねた王妃が、ある日、こう言った。
「王様、わたしの故郷に、有名な占い師がいます。とても有能な予言者という噂です。どうでしょう。その占い師に相談してみては」
「占いなどあてになるものだろうか……。だが何もしないよりはいいかもしれない」
 王は、藁にもすがる思いで、占い師を城に呼び寄せた。
 占い師は、古いつぎはぎだらけの黒い服を着た老婆だった。王はひれ伏さんばかりに深く頭をたれて、老婆に救いを求めた。
「王よ、あなたはたいへんな過ちをおかしましたね」
 老婆が、口を開くなり言った。静かな優しい声だった。
「なんと、わたしがですと?」
 王は信じられないという顔で、まじまじと占い師の顔を見返した。
「そうです。あなたは、根の老婆を殺したのです」
「根の老婆?」
 占い師は、哀れみをこめた長いため息とともに、ゆっくりと首をふって言った。
「王よ、あなたは、なぜ花が美しいのか、なぜ木々の緑がすがすがしいのか、知っておいでか。それは、誰も知らない地中深くに、根の老婆という、醜い女がいるからなのです。彼女らは、っ暗い土の下で、一生誰にも知られないで、木や花のために苦い土を食み続けるのです。彼女がいなければ、木や花は命を奪われたも同じです」
「ああ、それでは、あの夜、わたしが殺したのは……」
 王は、絶望のあまり、よろよろとその場に手をついた。
「知らなかったとは言え、あなたは大変なことをしてしまいました。神は怒って、国中の根の老婆を去らせてしまったのです。もう、この国に緑は蘇りますまい」
「もう、だめなのですか? わたし一人の罪で、民がみんな死んでしまうのですか? ああ、もう、神は許して下さらないのですか?」
 王は土に顔を伏せて、唇を噛んで泣いた。
「一つだけ、方法があります」
占い師の言葉に、王ははっと顔を上げた。占い師の老婆は、暗い顔で王の顔を見返した。
「でも、これには、たいへんな覚悟がいります。あなたにできますか?」
「教えてください、その方法を! 罪を償えるのなら、何だってする!」
「王よ、その方法とは……、死の河を超えることです。あなたは、死の河を超えて、神に会い、許しをこわねばなりません。そして、もう一度、新しい木をいただいてくるのです」
「しかし、死の河とは、人間には一度しか超えられない河です。川を越えて神に会えたとしても、どうやってこちら側に帰ってきたらいいのです? それではせっかくの木をこっちに持って帰ってくることはできない」
「王よ、あなたは死に、そして生きなければならない。それはあなたが王だからです。考えなさい。そうして答えを出しなさい。わたしにできるのはここまでです」
 そう言って、占い師は城を去っていった。
 次の日から、王は塔のてっぺんに閉じこもった。自分の浅はかな行いのせいで、この不幸が起こった。自分の正しさを一時も疑ったことのない王にとって、それはたえがたい苦しみだった。しかも、その罪をつぐない、もとの豊かな国に戻すことは、どう考えても不可能だった。人間に、死の河を二度渡ることは、できないのだ。
 王妃は、閉じこもったまま出て来ない王の身を心配して、ずっと中庭から塔を見上げていた。王の罪は王がつぐなわなければならない。それはわかっていてっも、何おできない自分が彼女にははがゆくてしようがなかった。
(せめて、あの方の心を慰めることができれば……、そうだわ、あの歌を歌ってみよう。お耳に届けばいいのだけれど)
 王妃は、心を込めて、優しいあの旋律を歌った。

 死の河を超えて
 来れ我が元に
 絶望のなせる業ではなく
 自らの王として

 その歌を聞いたとき、まるで、今までの自分を取り囲んでいた黒幕がいっせいに取り払われたように、王の目の前にある真実がありありと浮かび上がった。
「わたしには、わたしがある。わたしの命が、わたしに託されている。ああ、なぜこのことに気づかなかったのだ。わたしはこの国の殴打。そして、わたし自身の王なのだ!」
 塔より降りてきたとき、王妃の前に現れた王の顔には、一つの決意が現れていた。その瞳の中に、微動だにしない意志の輝きを見て、王妃は恐れおののいた。そして、深い悲しみにおおわれた。
「わたしの王妃よ。わたしは、これから南への旅に出る」
「ああ、それでは、死の河に赴かれるのですね」
 王妃のほおにはらはらと涙が流れた。王は彼女の肩に手を置くと、やさしくささやいた。
「王妃よ、死とは、滅びることではないのだ。あなたが歌ってくれたあの歌のおかげで、わたしにはそれがわかったのだよ。わたしは、わたし自身のすべてをかけて、神にお会いしてくる。そうしてきっと、帰ってくる」
 そういうと王は、腰の宝剣をとり、それを中庭の土に深く突き刺した。
「わたしが度に出ている間、決してこの剣を動かしてはいけない。そうしてもし、この剣が錆びて朽ちるまでわたしが帰らなければ……」
「ああ、そんなことをおっしゃらないでください!」
 王は、さめざめと泣いている王妃を胸に抱き寄せた。
そうして一時別れを惜しむと、王はすいと王妃の体から離れて、にっこりと笑い、くるりと振り返ってまた城の中に姿を消した。
次の朝早く、王は発った。誰ひとりとして共をつれず、わずかな食料を入れた粗末な皮袋だけを持って。王妃は塔のてっぺんから、小さなその姿が南の平原に向かって、だんだんと小さくなり、消えていくのを眺めていた。
 それから、毎日、王妃は、中庭の芝生に座って、宝剣ばかりを見つめて暮らした。大臣や召し使いたちがどんなに言っても、けっしてそこから動こうとしなかった。
 死の河は、南に五百日、東に七百日歩いた所にある。王妃は五百日待ち、そして七百日待った。また七百日待ち、五百日待った。だが、王は帰って来なかった。宝剣はだいぶ錆びつき、つかの飾りが腐って落ちた。
国は、次第に衰え、日と義とはだんだんと少なくなっていった。国民も、城の召し使いも、大臣たちでさえ、もっとほかの豊かな国を探してこの国を去り、やがて王妃のもとに残ったのは、昔から王妃に仕えている侍従一人だけになった。それでも、王妃は帰らぬ王を待っていた。
十年がたった。宝剣は、もうほとんど朽ちて、土の上にそれと探すのも苦労するようになった。だた王妃は待っていた。
「王妃様、もう剣はほとんど朽ちてしまいました。もう待っても無駄かと思います」
 侍従は言った。
「まだよ、まだ、刃の先が少しのこっているわ」
 王妃はそう言って、宝剣のそばをはなれようとはしなかった。
「王妃様、なぜそのようにしてまで、あのお方をお待ちになるのですか。しょせん、人間には死の河を二度渡ることはできないのです。人々ももう、ほとんどいなくなりました。国は滅びてしまったのですよ」
「あなたにはわからないのだわ。死は滅びることではないのよ。あのかたはそう言ったわ」
「王妃様」
「暗い闇の底で、何もできず、絶望にあえいでいた人の魂の中にも、どこからか語りかけるものがあるわ。今のわたしたちは、死なねばならないの。なぜなら、死の向こうにこそ、もうひとつの生きる道があるからよ」
 侍従はもう何も言わなかった。悲しみのあまり、王位は狂ってしまったのだと、そう思った。
 それから二、三日たった朝のことだった。侍従がいつものように、粗末な食事を王妃に届けようとしていたとき、庭から狂ったような王妃の笑い声と叫び声を聞いた。
「ああ、ああ、帰っていらっしゃった! 帰っていらっしゃったわ!」
 驚いた侍従は、あわてて中庭に降りた。すると、どうだろう。王の遺した宝剣のあったあたりの地面から、若葉色のまばらな樹冠をのせた細い若木が、まるで大地から天が白い綱を引っ張り出しているように、するすると見る間に伸びていくではないか。
 王妃は泣きじゃくりながら、伸びていく木の幹にすがりついた。するとそのとき、ゆらゆらと彼女の姿がぼやけ、瞬きをするあいだに、彼女の姿はとめどなくあふれる泉になった。木は枝を伸ばし、こずえをはり、刃を茂らせ、瞬く間に大木になり、泉は次々とわきいでて、水を集め一本の小さな流れになった。まるで、長く会わなかった恋人たちのように、木と水はからみあい、もつれあいながら、成長し、広がっていった。
 そして一夜のうちに、国に大きな森と、河が出現した。
 わずかに残っていた人々が、それを見て、喜びのあまり、口々に王と王妃の名を呼びながら、城に集まってきた。だが、城はもうどこにもなく、ただ、新しい河のほとりに、老いた侍従が呆然と立ち尽くしているのを見つけただけだった。
 それから、王と王妃の姿を見た者はだれもいない。城は森の中に消え、王家の血は絶えた。人々は新しい城を建て、新しい王を立てて、新しい国を作った。だが、その国には、二度と、昔のように豊かな幸せが訪れることはなかった。森と河は確かに美しく豊かであったが、それらはもう決して、彼らを快くうけいれることはなかった。
 人々は、昔、自分たちが夢の中に住んでいたことを知った。そして、自分達が愚かで、醜かったことを知った。
 長い長い年月がたった。人々は、その悲しい伝説と共に、その森のことを「死の河の森」と呼んで、長い間忘れなかった。だが、それもしょせん一時のことだった。今では誰も、その森がどこにあったのか知らない。
 だけど、この世界のどこかに、その森は、ひっそりとたしかに生きている。人々の忘れてしまった思い出をその奥に隠して、そうして、じっと、待っている。一つの決意を持って、いつか誰かが、訪れてくるのを。

(おわり)


(1989年、個人誌「ここり」掲載)




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