ヤマユリ Lilius auratum
ユリ科ユリ属。山百合。
夏、山の中で光に染められたような白い大きな花をつけます。白いユリの花というと、何とはなしに聖母マリアを思い浮かべますが、山百合はテッポウユリほど清楚可憐ではなく、香りの強さや濃い花粉の色は、むしろ男性的ですらあります。
キリスト教には、最後の審判という考えがあります。システィーナ礼拝堂のミケランジェロの壁画が有名ですが、この世の終わりに再びキリストが現れ、神の名において人々を良い人間と悪い人間にふりわけるという。私は、この考え方が、あまり好きではありません。
果たして、あの優しい人が、自分をあざ笑いながら殺す人々のために、神にとりなしをするような人が、最後の審判などという恐ろしいことを言い出すだろうか。あれは、彼を見殺しにしてしまった弟子たちが、己が罪に対する両親のうずきと後悔を少しでも薄めるために生み出した考えなのではないだろうか。または彼を裁き、磔刑に処した人々への悲憤が、そういう考えを作りだしたのではないでしょうか。いつかあの人はまたやってきて、罪深き者に復讐するに違いないと。
最後の審判という考え方は、人を善悪の二つに分けてしまいます。善と悪、敵と味方、正と邪、光と闇、バラバとキリスト…。そこでは永遠に善は善のまま、悪は悪のまま。それでは、一度でも罪に落ちたものは永遠に救われないことになる。
この世で、永遠に善のままである人などあるだろうか。逆もまたしかり。罪や失敗の泥に、一度も染まったことのない人があるだろうか。いや、罪や愚かな失敗があるからこそ、人は学び、そこから出発し、新たな自分を求めてゆくのではないだろうか。
キリスト教の発端は、ある罪のない優しい人の死でした。そこにはあらゆる人の愚かさと無知があった。人々が自らに見いださねばならない弱さがありました。けれど弟子たちの多くは、その自分の弱さを見なかった。輝かしいキリストの伝説を作り上げることで、功をなし己の罪を雪ぎたかった。のではないか。
ジーザスはそんな弟子たちが作った玉座に、果たしてよろこんで座っているのでしょうか。
(2005年9月花詩集28号)