(マレーネ・デートリッヒの「カフェ・エレクトリック」。TimeOutTokyo より引用。)
映画は劇場演劇とはぜんぜん違うものです。アップとかズームとか早い場面転換などは劇場演劇ではできません。このようなことは映画が好きな方には当たり前のことでしょうが、先日、映画の歴史を追ったTV番組で、私は「なるほど」と思ったのでした。
その番組では、次のような無声映画の例が挙げられていました。すなわち、2階建ての家の2階が火事の場面です。家の外からは消防士が2階へ向けてハシゴをかけようとしています。
2階の室内で人々があわてている場面と、外で消防士が急いで作業をしている場面が交互に映し出されます。つまり中からと外からをほぼ同時に見せたのですね。その映画は、火事場の緊迫した様子を示すものとして観衆になんの抵抗もなく受け入れられたそうです。つまり、映画は劇場演劇では不可能な描写を可能にしました。
このような映画の手法を、漫画は大いに取り入れました。顔のアップだけのコマによって、心理描写さえ行われます。先日述べた『乙嫁語り』でも映画的な手法がふんだんに用いられています。
石森章太郎は著書『マンガ家入門』(1967)で、映画をたくさん見るようにと薦めています。石森は手塚以上に映画的手法にこだわった人でしょう。(手塚は同じキャラを別の漫画に登場させています。監督が同じ俳優を別の映画に起用するのと同じですね。)
『乙嫁語り』の記事にも書いたように、もはや漫画表現は映画表現を超えてしまったのではないでしょうか?映画は俳優の個性やイメージに縛られますが、漫画は縛られません。映画は人物でも背景でも実物が映っているので、想像力を膨らませる余地が漫画より少なくなります。制作費用も漫画のほうが圧倒的に少なくてすみます。
読者のみなさまは、どのようにお考えになるでしょうか?
※今日、気にとまった短歌
ひと老いて何のいのりぞ鰻すらあぶら濃過ぐと言はむとぞする 斎藤茂吉『つきかげ』