上の本はヤスパースの『 Allgemeine Psychopathologie (精神病理学総論)』という書物で、厚さが電話帳くらいあります。現在ではペーパーバックが出ていますが、私が精神科医になりたてのころはハードカバーのみで、たいへん高価な本でした。
精神科医になって40年、この本をいつかは読むだろうと買っておいたのですが、ついに1ページも読みませんでした。とにかく難しすぎるのです。
当時、このほかにもビンスヴァンガーの『 Schizophrenie(統合失調症)』が翻訳されました。ハイデッガーの現象学的存在論哲学を援用した精神病理学の本で、めちゃめちゃ難解でした。こうしてドイツ精神病理学は一時代を画しましたが、それらは現在も生き残っているとは言い難いです。
これらを翻訳した先生方は当時の最高の頭脳でした。とにかくドイツ人よりドイツ語ができる人たちでした。
いま思うに、ドイツ精神病理学には「解るものなら解ってみろ!」というようなところがあって、精神科に進もうとする医学生のハードルになっていました。精神科医は他科の医者に「精神医学は難しい」と思わせ、自分たちだけは解るのだと得々としている面がありました。その結果、医学生のあいだでは精神医学は難しそうだから敬遠しておこうという雰囲気ができてしまいました。
精神科医の「君たち(他科の医者)には解らないだろう!」という不遜な姿勢が、その後の精神医学の自然な発展を阻んだと私は考えています。
ご指摘のようなことは、法学の世界にも見られます。ドイツの法学の論文には難解なものが多かったものです(今も以前ほどではありませんが、その傾向はあります)。
しかし、晦渋な議論を突き詰めてみたら、実にたわいもないことを言っていることが分り唖然とすることもよくありました。
晦渋さはドイツ観念論の韜晦さに起因するところが大きいとにらんでいるのですが、果たしてどうでしょうか。
私はドイツ観念論の全体像を知りませんが、ドイツの哲学的精神病理学に関して言えば、ものすごく理屈っぽく、「気分でだいたい察知してくれ」というところがなく、どこまでも厳密に言葉で言い表そうとしているように感じます。
そのためドイツ語に精通していないと理解困難です。無理に日本語に訳すと、Sein (であること、があること)が「存在」と訳され、dasein が「現存在」と訳されて意味不明になります。
私はドイツ語に堪能なものであありませんが、堪能な恩師は「その国語(ドイツ語)のリズムに乗らないと理解できないよ」と言っておられました。