「地震で家が倒壊した」という事実があるとき、家が倒壊した原因はなんだろうか?多くの人は「地震が原因だ!」と答える。
だが、ある建築家は「家が免震構造になっていなかったのが原因だ!」と答える。どちらも正しい。
友人の物理学者によれば「因果律は現実そのものに内在しているのではなく、それを理解しようとする心の側にある。だから因果的理解は常にあいまいさを内包している」とのことだった。
厳密な学である理論物理学には、因果関係は存在せず、関数関係があるだけだとはすでに述べた。(2013-08-26)
※今日、気にとまった短歌
電柱に青い手さげがぶら下がる中身を見たら戻れぬ予感 詠み人知らず
だが、ある建築家は「家が免震構造になっていなかったのが原因だ!」と答える。どちらも正しい。
友人の物理学者によれば「因果律は現実そのものに内在しているのではなく、それを理解しようとする心の側にある。だから因果的理解は常にあいまいさを内包している」とのことだった。
厳密な学である理論物理学には、因果関係は存在せず、関数関係があるだけだとはすでに述べた。(2013-08-26)
※今日、気にとまった短歌
電柱に青い手さげがぶら下がる中身を見たら戻れぬ予感 詠み人知らず
このご質問にはたいへん深い意味が含まれています。
裁判は因果論的に見えますが、じつは多数決(多くの国民が納得するかどうか)だと思います。
自然界の出来事を因果論的に把握するのは、人間の認識力の限界というか、そのように因果論的に認識しなければ(多くの人が)理解できないということなのです。つまり、今年が暑いのは太平洋高気圧が居座っているから・・と説明されると私たち素人の国民は理解できます。
しかし、自然界の出来事を因果論的に理解するのは、ほんとうは論理的でない。ある事象に注目するとき、宇宙全体の動きの一部に過ぎませんから、その事象はアンドロメダ星雲の振る舞いとか宇宙全体の影響を受けているはずです。
宇宙全体はいっぺんにまとまって動いているはずですから、理論物理学は因果論を捨てました。
裁判はきわめて俗な営みです。子どもの自殺を学校の責任(原因)に帰するのか、そうでないかは、とても恣意的です。
ところが物理学のような厳密な学問はとうぜん多数決を許さない。論理を突き詰めていくと、因果関係は語れない(語っても、その人の認識の勝手だ)ということになるようです。
だから、裁判で争われるような事柄は、所詮多数決または声の大きいもの勝ち、ということになりますね。
小難しくて、すいません。
物理学って難しいということがわかりました
(-_-;)
でも裁判は多数決ということを知っただけでも良かったです。
お忙しいところ、どうもありがとうございました!
世論が納得するということと、論理的に正しいということは、まったく別のことなのです。