温泉流行の原因 2018-01-24 21:28:33 | 生活 (城崎温泉。温泉部より引用。) 温泉が人気があるのは効能があるからではない。 江戸時代以前、国民はほとんどが農民だった。彼らも風呂に入った。ただ水を汲み薪をくべるのは大変で、同じ風呂に何所帯も入ったから、最後は風呂はドロドロになった。 そこで温泉の出番である。水汲みや薪をくべる労力が要らない。こうして温泉は栄えたのだと思う。 ※今日の俳句 気が付けば病院に居し春霞 ひとし(豊橋市) ※富田達夫くん 僕の郵便がとどいていたら簡単でよいから返事をください #きいてきいて « オランダの風車 | トップ | 弁当の美しさ »
1 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 温泉ばなし (シナモン) 2018-01-29 09:49:21 温泉ばなし(1)地下を掘り進めれば、少しずつ温度が上昇していく。近頃では掘削技術が進化したから、地下水脈がある場所を千五百とか二千メートル掘り進めれば、鉱泉、運がよければ温泉を地上に導くことが出来る。拙宅近くにある稲村ガ崎温泉や江ノ島温泉は、そのようにして掘られた。よく利用している。母方の祖父の末の弟、私からみれば大叔父にあたる大六おじさんは、戦前に京都帝大で鉱山学を学び、地下深くの温泉の水脈を発見する仕事の専門家だった。戦前、戦中の時代故、深くは掘れない。そのためたいていは鉱泉のレベルだったと言っていた。(2)さて、現代の掘削技術は別にして、伝統的な古来の温泉が出るのは大半が山間部である。火山帯との関係も深い。従って、一般的に平地の農民が日常的に温泉の恩恵に浴する可能性はゼロではないだろうが、限りなくゼロに近い。また、温泉は草津や箱根や有馬をみてもわかるが、設備投資に金がかかる。農民が日々、入浴という意味で温泉に浴するのは、資金的な意味でも地理的意味でも困難だ。(3)江戸時代までは、ごく一般的な長距離移動手段はじつは徒歩だった。江戸と上方の往来は、テクテク歩いて二週間ほど。途中宿泊するからけっこう金がかかる。よほどの用事でもなければそもそもそのような遠出はしない。その余程の用事の代表格が、本人が出かける温泉湯治と、代表者が出かけるお伊勢参りや大山参りなどの「講」である。いづれにせよかなりの時間と金がかかった。村や町の代表者がでかけるのも金が理由だった。もちろん江戸時代の人々にとって、江戸から箱根の温泉地へでかけるなど朝飯前の徒歩旅行。現代みたいにミーちゃんもハーちゃんも車と電車で一発という風にはいかなかったにしても、資金の裏付けがあれば、少なくともある程度の近場への湯治行脚は不可能ではなかった。(4)明治初期に東北を旅し『日本奥地紀行』(1880)Unbeaten Tracks in Japan を刊行した十九世紀エリザベス朝の旅行作家イザベラ・バードのことは諸姉諸兄、御存じのことと思うが、日光の湯元温泉や、山形の赤湯温泉など、何カ所か温泉を熱心に紹介し、その風光明媚を「エデンの園」「東洋のアルカディア」と絶賛している。『日本奥地紀行』は講談社の学術文庫から出ている。一読をお薦めしておく。シナモンhttps://twitter.com/yamkam1020bze24075@nifty.ne.jp 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
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地下を掘り進めれば、少しずつ温度が上昇していく。近頃では掘削技術が進化したから、地下水脈がある場所を千五百とか二千メートル掘り進めれば、鉱泉、運がよければ温泉を地上に導くことが出来る。
拙宅近くにある稲村ガ崎温泉や江ノ島温泉は、そのようにして掘られた。よく利用している。
母方の祖父の末の弟、私からみれば大叔父にあたる大六おじさんは、戦前に京都帝大で鉱山学を学び、地下深くの温泉の水脈を発見する仕事の専門家だった。戦前、戦中の時代故、深くは掘れない。そのためたいていは鉱泉のレベルだったと言っていた。
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さて、現代の掘削技術は別にして、伝統的な古来の温泉が出るのは大半が山間部である。火山帯との関係も深い。従って、一般的に平地の農民が日常的に温泉の恩恵に浴する可能性はゼロではないだろうが、限りなくゼロに近い。
また、温泉は草津や箱根や有馬をみてもわかるが、設備投資に金がかかる。農民が日々、入浴という意味で温泉に浴するのは、資金的な意味でも地理的意味でも困難だ。
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江戸時代までは、ごく一般的な長距離移動手段はじつは徒歩だった。江戸と上方の往来は、テクテク歩いて二週間ほど。途中宿泊するからけっこう金がかかる。よほどの用事でもなければそもそもそのような遠出はしない。
その余程の用事の代表格が、本人が出かける温泉湯治と、代表者が出かけるお伊勢参りや大山参りなどの「講」である。いづれにせよかなりの時間と金がかかった。村や町の代表者がでかけるのも金が理由だった。
もちろん江戸時代の人々にとって、江戸から箱根の温泉地へでかけるなど朝飯前の徒歩旅行。現代みたいにミーちゃんもハーちゃんも車と電車で一発という風にはいかなかったにしても、資金の裏付けがあれば、少なくともある程度の近場への湯治行脚は不可能ではなかった。
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明治初期に東北を旅し『日本奥地紀行』(1880)Unbeaten Tracks in Japan を刊行した十九世紀エリザベス朝の旅行作家イザベラ・バードのことは諸姉諸兄、御存じのことと思うが、日光の湯元温泉や、山形の赤湯温泉など、何カ所か温泉を熱心に紹介し、その風光明媚を「エデンの園」「東洋のアルカディア」と絶賛している。『日本奥地紀行』は講談社の学術文庫から出ている。一読をお薦めしておく。
シナモンhttps://twitter.com/yamkam1020
bze24075@nifty.ne.jp