ある日。
電話口で中国史を勉強した友人が熱っぽく、語り始めました。
友人:「よーめーたんがいいよ、よーめーたん!」
なめ:「よーめー……王陽明?」
友:「そう、よーめーたん。萌!!」
なめ:「も、もえ……?そーしゅーたんにもえろよ、そーしゅーたん!」
友:「いや、よーめーたんがいい!!」
なめ:「そーしゅーたんもいいぜ!!」
友:「よーめーたん!」
なめ:「そーしゅーたん!」
友:「よーしゅーたん!!」
なめ:「ろーたん!!」
そうゆうわけで王陽明さんに手を伸ばしてみることにしました。
ヤツが何にもえたのか、それが知りたかったからです。
もえどで負けたわけではありません(何の話じゃ)
王陽明(1472~1529)、本名は守仁、字は伯安。陽明は、その号です。
余姚の人。現在の上海のちょっと下くらいで生まれました。
日本では戦国時代真っ盛りですが、中国の文明としては、
清の前の王朝、つまり、文明が爛熟した頂点に近づき、またそろそろと
腐敗の影が見え始める頃です。
きっと感覚としては、明治や大正の時代と近いものがあるんじゃないか、とは
私個人の印象です。
小さな頃から書物の暗唱もすらすら、お題を与えられてすぐさまぱっと詩を
作ってしまうほど優秀な子供でした。
でも、性格は奔放で、塾の先生の手に余り、真面目なお父さんにはよく
叱られたそうです。
王陽明には「五溺」と呼ばれる惑いの時期があります。
初めは任侠の習わし、次に騎射の習わし、三つ目は詩文、
四つ目は神仙、五つ目は仏氏。
いろいろ迷ったんだな、と同時に、こうした数々のものを学んだことが、
後に収束してゆくさまが、王陽明の不思議な点ではないかと想います。
若い頃、任侠の習わしにはまったおかげで、後に偉くなってから
故郷に戻って講義したとき、彼の行状を覚えていた土地の古老が眉をひそめた、
という話が残っているほどなので、よっぽど派手だったのでしょう。
とりあえずティーンのときに任侠道と騎射、そして青年期に試験に落ちまくって
やたけたになり、詩文で思いを吐露することにはまります。このころ李白に
ちょっとはまったりもしましたが、一方で集中していたのは兵法の研究でした。
食事の時、果物の種を並べて陣形を作り、座興としたほど研究して、
当時の軍事に対して上奏も行うほどの研鑽を積みます。
でも「生きることへの真理には、詩文も兵法も届かないなあ」
という意識はいつも彼の脳裏をかすめていた。
そして、思い晴れぬまま二十八歳の時やっと、科挙に合格しました。
彼は工部、今の建設省の見習いに配属され、大勢の人夫を働かせるために
什伍の法といわれるチーム制を編み出して効率的に働かせました。
暇があれば、諸葛亮が創案したと言われる八陣図を演習していたといいます。
見習い期間が終った次の歳に、今度は雲南省の刑部、今の法務省に任官されます。
が、この刑部は当時の省庁の中でも最も激務で、三十歳の時ついに
過労で倒れてしまいました。
王陽明の父、王華が心配して、就寝する時陽明の書斎に火を置くのを禁じたのに、
陽明はお父さんが寝たスキをついて毎日夜中まで読書、血を吐くまで読書して
次の年に故郷へ帰って療養することになりました。
そしてこの帰郷の時、読書と修錬のために彼がこもった場所が、
「陽明洞」と号される場所でした。
陽明洞の場所は諸説ありますが、参考にした大西春隆氏の『王陽明』では、
道教の経典のひとつ『亀山白玉教』に、「会稽山は周廻は三百五十里、陽明洞天と名づく」
を引いて、王陽明が会稽山のふもとに庵を結んだことをさす、という論を
ここでは引きます。
ともあれ、ここで陽明は先に述べた「五溺」のひとつ「仙道」にはまり、
来客を予知したり、雨乞いに成功したりと不思議な体験を重ねます。
しかし、仙道を極めるためには全てを捨てて一人没入する、家族もなにもかも
全て捨てて、ひたすら自身の精神を練磨することが必要です。
でも王陽明は悩みます。
この道は確かに、真理を求める道のひとつだけれど、人としての情を置いてゆく
ことは自分には出来ない。
そう悩む陽明はある日、ふっと悟りました。
「おかーさんやおとーさんを思慕するのはしょうがない。子供の頃から生じるものだし!
なによりこの情を取ったら、人が人であることを否定してしまうしね」(意訳)
なんかふっきれた王陽明。体力も回復して、各地を周遊に出かけました。
会稽から天目山に出かけ、太湖を遊覧。玄墓山に友達の都玄敬と遊びに行って、
天平山に登って。
ついでにあちこちの禅寺を廻って、仏教の研鑽、最後の「溺」にはまり、
彼の休みは終わりました。1504年に、彼は官にもどりました。
そして、次の年。
中興の明主と呼ばれた明の考宗が崩じた1505年から、彼の運命はごりっと変わります。
後を継いだ武宗は、お父さんが「頭はいいけど遊びたい盛りだから気をつけてね」
と心配したとおり、周りをとりまく宦官たちにそそのかされて歌舞と酒と女の日々に突入。
(でもよっぽどの名君じゃないと、宦官の影響を受けずにまっとうに育つのは
ほんとに難しいのです。それほど宦官は影響力を持ってました)
政治は宦官に丸投げし、劉瑾という宦官を中心に彼らの専横政治が始まりました。
お父さんが頑張って国を立て直したのに、かえって民は貧乏になるわ、
反乱軍はあちこちで勃発するわ、明の国力ががっくんと揺らいだ元凶を
作った方でもあります。
だめ息子の統治になって一年後、宦官の悪さを弾劾して投獄された人を
許すよう上奏した王陽明は、仲間とともに投獄され、棒でひっぱたかれる
罰(杖刑といいます)を受けて左遷されてしまいます。
でも、この左遷のなかで、彼は岩穴で静かに瞑想を続け、心の中で
どんどんと己の思想を深めてゆきます。
つづきは、又この後で。(続いてしまった……もえまけてる……)
電話口で中国史を勉強した友人が熱っぽく、語り始めました。
友人:「よーめーたんがいいよ、よーめーたん!」
なめ:「よーめー……王陽明?」
友:「そう、よーめーたん。萌!!」
なめ:「も、もえ……?そーしゅーたんにもえろよ、そーしゅーたん!」
友:「いや、よーめーたんがいい!!」
なめ:「そーしゅーたんもいいぜ!!」
友:「よーめーたん!」
なめ:「そーしゅーたん!」
友:「よーしゅーたん!!」
なめ:「ろーたん!!」
そうゆうわけで王陽明さんに手を伸ばしてみることにしました。
ヤツが何にもえたのか、それが知りたかったからです。
もえどで負けたわけではありません(何の話じゃ)
王陽明(1472~1529)、本名は守仁、字は伯安。陽明は、その号です。
余姚の人。現在の上海のちょっと下くらいで生まれました。
日本では戦国時代真っ盛りですが、中国の文明としては、
清の前の王朝、つまり、文明が爛熟した頂点に近づき、またそろそろと
腐敗の影が見え始める頃です。
きっと感覚としては、明治や大正の時代と近いものがあるんじゃないか、とは
私個人の印象です。
小さな頃から書物の暗唱もすらすら、お題を与えられてすぐさまぱっと詩を
作ってしまうほど優秀な子供でした。
でも、性格は奔放で、塾の先生の手に余り、真面目なお父さんにはよく
叱られたそうです。
王陽明には「五溺」と呼ばれる惑いの時期があります。
初めは任侠の習わし、次に騎射の習わし、三つ目は詩文、
四つ目は神仙、五つ目は仏氏。
いろいろ迷ったんだな、と同時に、こうした数々のものを学んだことが、
後に収束してゆくさまが、王陽明の不思議な点ではないかと想います。
若い頃、任侠の習わしにはまったおかげで、後に偉くなってから
故郷に戻って講義したとき、彼の行状を覚えていた土地の古老が眉をひそめた、
という話が残っているほどなので、よっぽど派手だったのでしょう。
とりあえずティーンのときに任侠道と騎射、そして青年期に試験に落ちまくって
やたけたになり、詩文で思いを吐露することにはまります。このころ李白に
ちょっとはまったりもしましたが、一方で集中していたのは兵法の研究でした。
食事の時、果物の種を並べて陣形を作り、座興としたほど研究して、
当時の軍事に対して上奏も行うほどの研鑽を積みます。
でも「生きることへの真理には、詩文も兵法も届かないなあ」
という意識はいつも彼の脳裏をかすめていた。
そして、思い晴れぬまま二十八歳の時やっと、科挙に合格しました。
彼は工部、今の建設省の見習いに配属され、大勢の人夫を働かせるために
什伍の法といわれるチーム制を編み出して効率的に働かせました。
暇があれば、諸葛亮が創案したと言われる八陣図を演習していたといいます。
見習い期間が終った次の歳に、今度は雲南省の刑部、今の法務省に任官されます。
が、この刑部は当時の省庁の中でも最も激務で、三十歳の時ついに
過労で倒れてしまいました。
王陽明の父、王華が心配して、就寝する時陽明の書斎に火を置くのを禁じたのに、
陽明はお父さんが寝たスキをついて毎日夜中まで読書、血を吐くまで読書して
次の年に故郷へ帰って療養することになりました。
そしてこの帰郷の時、読書と修錬のために彼がこもった場所が、
「陽明洞」と号される場所でした。
陽明洞の場所は諸説ありますが、参考にした大西春隆氏の『王陽明』では、
道教の経典のひとつ『亀山白玉教』に、「会稽山は周廻は三百五十里、陽明洞天と名づく」
を引いて、王陽明が会稽山のふもとに庵を結んだことをさす、という論を
ここでは引きます。
ともあれ、ここで陽明は先に述べた「五溺」のひとつ「仙道」にはまり、
来客を予知したり、雨乞いに成功したりと不思議な体験を重ねます。
しかし、仙道を極めるためには全てを捨てて一人没入する、家族もなにもかも
全て捨てて、ひたすら自身の精神を練磨することが必要です。
でも王陽明は悩みます。
この道は確かに、真理を求める道のひとつだけれど、人としての情を置いてゆく
ことは自分には出来ない。
そう悩む陽明はある日、ふっと悟りました。
「おかーさんやおとーさんを思慕するのはしょうがない。子供の頃から生じるものだし!
なによりこの情を取ったら、人が人であることを否定してしまうしね」(意訳)
なんかふっきれた王陽明。体力も回復して、各地を周遊に出かけました。
会稽から天目山に出かけ、太湖を遊覧。玄墓山に友達の都玄敬と遊びに行って、
天平山に登って。
ついでにあちこちの禅寺を廻って、仏教の研鑽、最後の「溺」にはまり、
彼の休みは終わりました。1504年に、彼は官にもどりました。
そして、次の年。
中興の明主と呼ばれた明の考宗が崩じた1505年から、彼の運命はごりっと変わります。
後を継いだ武宗は、お父さんが「頭はいいけど遊びたい盛りだから気をつけてね」
と心配したとおり、周りをとりまく宦官たちにそそのかされて歌舞と酒と女の日々に突入。
(でもよっぽどの名君じゃないと、宦官の影響を受けずにまっとうに育つのは
ほんとに難しいのです。それほど宦官は影響力を持ってました)
政治は宦官に丸投げし、劉瑾という宦官を中心に彼らの専横政治が始まりました。
お父さんが頑張って国を立て直したのに、かえって民は貧乏になるわ、
反乱軍はあちこちで勃発するわ、明の国力ががっくんと揺らいだ元凶を
作った方でもあります。
だめ息子の統治になって一年後、宦官の悪さを弾劾して投獄された人を
許すよう上奏した王陽明は、仲間とともに投獄され、棒でひっぱたかれる
罰(杖刑といいます)を受けて左遷されてしまいます。
でも、この左遷のなかで、彼は岩穴で静かに瞑想を続け、心の中で
どんどんと己の思想を深めてゆきます。
つづきは、又この後で。(続いてしまった……もえまけてる……)