さて、タン話もそろそろ区切りを付けたいところです。
あらすじ:
左遷された陽明タンは、言葉も通じない上慣れない気候の国でたいへんな苦労をしました。
苦労する中、この苦労を聖人だったらどう対処してゆくか?と考え続け、ついに「心即理」という、ひとつの悟入に至ったのでありました。
王陽明が左遷されてから三年後、左遷した張本人である、悪い宦官の総元締め劉キンが死にました。
これを受けて王陽明は久々に中国らしい土地へと戻ってきました。1510年、王陽明38歳の時です。
この後、彼はさまざまな官を歴任しますが、その中で司令官としての大任を果たしました。以前にもお話しましたが、皇帝があんまりにもダメ皇帝だったので、政治が上手く収まらず、中華のあちこちで不満がどんどん上がり、内乱がとても多かったのです。
それは盗賊や民衆の挙げた反乱もありましたが、王陽明が遭遇したのは、なんと皇室の一族である寧王、シン濠の反乱でした。シン濠と言う人は、明の建国者朱元璋の17番目の子、権の四世の孫です。南昌(今の江西省南昌市近辺)に封じられました。
シン濠は武宗の世継ぎがいないことに目をつけ、自分の第二子を皇帝にするため、側近の劉キンら宦官と結託し、兵を集め、さらに王陽明はじめ知識人を招いておおっぴらに勢力を拡大していました。
王陽明はシン濠に招かれた際、弟子のひとりを遣わしてその非道を正そうとしましたが、かえって殺されそうになり、首に賞金をかけられた弟子はほうほうの体で故郷に逃げ帰りました。
こうしてやりたい放題をやっていたシン濠にも時が近づき、情勢が自分に不利だと察知したシン濠はついに兵を挙げました。1519年のことです。
この年は、王陽明の弟子が彼の言葉を記録した『伝習録』が刊行されたり、慕っていた祖母が亡くなったり、と多くの事件が王陽明に訪れましたが、中でも乱の勃発が大きな事件だったのでしょう。
ともあれ、王陽明はシン濠が軍を起こしたのを聞くと、直ぐに兵を起こし14日で彼を生け捕りにしました。大きな活躍です。
この活躍を忘れてもらえなかったのが、王陽明の不運だった、のかもしれません。
さて、乱を平定した後も、前も、軍事で忙しい中、王陽明はどんどんと自分の教えを人に広げてゆきました。義弟の徐愛をはじめとし、多くの人々が彼の盛名を慕って教えを請いにやってくるようになります。
それこそ、名前を覚えきれないほど人が集まり、近くの寺院には彼の教えを聞くための人が大勢泊まりこんで、さらに入りきれずに床で寝るほどの人を集めるようになりました。
こうして話した内容を、弟子が書き取って次々と本にし、王陽明の教えとして今に伝わるようになったのです。
王陽明自身は、自分の言葉が言葉だけ伝わって、中身が伝わらないことを嫌がり、
書物を著すことをしぶっていましたが、それでも言葉が無いと、教え自体も
なかったこと、になってしまいますから、弟子達は王陽明の言葉を書に移して
伝える決断を下したのでした。
本ができ、弟子ができ、教えを円熟させよう、と言う頃になって、最期の戦が彼を呼びました。再度反乱を討伐せよ、とのお達しが陽明の元に舞い込んだのです。
この年、1529年、王陽明57歳の年。
身体の調子が思わしくない王陽明は辞退しましたが、以前の輝かしい戦歴を盾に政府は聞き入れず、彼は異民族の反乱を討伐することになりました。
反乱は無事討伐しましたが、体力を使いきった王陽明は凱旋途中、ついに没してしまいます。
最期のことばは、
わが心光明なり、
また何をか言わん。
だったと、いわれています。
でも、別の資料はこう語る王陽明を見つけていました。
ほかに思うことは無い。
ただ、平生の学問にようやくめどが立った今、
弟子達とこれを大成できなかったことが、残念なだけだ。
と。
王陽明の死後、陽明学はいくつかの党に分かれてしまいました。
そして良知の解釈をめぐり、左派と右派まっぷたつに別れて中国本土では、
徐々に廃れてゆきました。
再び隆盛するのは、19世紀清の終わりごろ。
王陽明の教えは、むしろ中国を離れた朝鮮や日本で強く慕われるようになってゆきます。
:王陽明ざっくり概要 一旦終わり:
:以下ぼろぼろ追記:
一通り王陽明を巡ることはとても難しいです。いろんな要素が絡み合って、
王陽明の辿った人生を追うことはなんとか、本を読めるのですが、その先、
どこの教えがどう、誰に影響したかと言う点は、まだまだ理解が足らず、
教えについてかけないのは、筆者しょうもない限りです。
『伝習録』や『大学問』など、残るさまざまな書籍に出てくるやり取りがまず、
孔子や孟子、朱子学のテキストを前提とした会話が非常に多く、その言葉の
深い理解を求める、というスタイルで話が進んでゆくため、前提知識として
読者もある程度この知識に触れていることが必要になります。
これが相当むつかしく、まず出典の著者の理解を踏まえた上で読まないと、
結局は王陽明のイヤがる100年の誤読へとつながるわけだと思います。
ただ、唯一「つかめたかな」と感じたのは、王陽明がその教えや言葉のはしばしで
大切にしていた「こころ」のありようでした。
今手元にある陽明タン関連の本は、
・『人類の知的遺産25 王陽明』 大西晴隆 講談社 1979
・『王陽明集』 島田虔次 朝日新聞社 1975
の二冊です。
この中、島田さんのほうの『王陽明集』解説にて、こんな一文がありました。
P13 より
「――私はかつて陽明の良知というのはハートの意味であるとしたことがあるが
(『朱子学と陽明学』132ページ)、この考えはいまでも改めようとは思わない。
知行合一という点でも、自他合一という点でも、それは私にはハートと
考えられるのであって、とりわけルソー的なハートというものに最も近いものと考えられるのである。」
あ、ハートでよかったんだ。
すこしほっとした一文でした。
またちょっとだけ、書く時間をもらうつもりです。
あらすじ:
左遷された陽明タンは、言葉も通じない上慣れない気候の国でたいへんな苦労をしました。
苦労する中、この苦労を聖人だったらどう対処してゆくか?と考え続け、ついに「心即理」という、ひとつの悟入に至ったのでありました。
王陽明が左遷されてから三年後、左遷した張本人である、悪い宦官の総元締め劉キンが死にました。
これを受けて王陽明は久々に中国らしい土地へと戻ってきました。1510年、王陽明38歳の時です。
この後、彼はさまざまな官を歴任しますが、その中で司令官としての大任を果たしました。以前にもお話しましたが、皇帝があんまりにもダメ皇帝だったので、政治が上手く収まらず、中華のあちこちで不満がどんどん上がり、内乱がとても多かったのです。
それは盗賊や民衆の挙げた反乱もありましたが、王陽明が遭遇したのは、なんと皇室の一族である寧王、シン濠の反乱でした。シン濠と言う人は、明の建国者朱元璋の17番目の子、権の四世の孫です。南昌(今の江西省南昌市近辺)に封じられました。
シン濠は武宗の世継ぎがいないことに目をつけ、自分の第二子を皇帝にするため、側近の劉キンら宦官と結託し、兵を集め、さらに王陽明はじめ知識人を招いておおっぴらに勢力を拡大していました。
王陽明はシン濠に招かれた際、弟子のひとりを遣わしてその非道を正そうとしましたが、かえって殺されそうになり、首に賞金をかけられた弟子はほうほうの体で故郷に逃げ帰りました。
こうしてやりたい放題をやっていたシン濠にも時が近づき、情勢が自分に不利だと察知したシン濠はついに兵を挙げました。1519年のことです。
この年は、王陽明の弟子が彼の言葉を記録した『伝習録』が刊行されたり、慕っていた祖母が亡くなったり、と多くの事件が王陽明に訪れましたが、中でも乱の勃発が大きな事件だったのでしょう。
ともあれ、王陽明はシン濠が軍を起こしたのを聞くと、直ぐに兵を起こし14日で彼を生け捕りにしました。大きな活躍です。
この活躍を忘れてもらえなかったのが、王陽明の不運だった、のかもしれません。
さて、乱を平定した後も、前も、軍事で忙しい中、王陽明はどんどんと自分の教えを人に広げてゆきました。義弟の徐愛をはじめとし、多くの人々が彼の盛名を慕って教えを請いにやってくるようになります。
それこそ、名前を覚えきれないほど人が集まり、近くの寺院には彼の教えを聞くための人が大勢泊まりこんで、さらに入りきれずに床で寝るほどの人を集めるようになりました。
こうして話した内容を、弟子が書き取って次々と本にし、王陽明の教えとして今に伝わるようになったのです。
王陽明自身は、自分の言葉が言葉だけ伝わって、中身が伝わらないことを嫌がり、
書物を著すことをしぶっていましたが、それでも言葉が無いと、教え自体も
なかったこと、になってしまいますから、弟子達は王陽明の言葉を書に移して
伝える決断を下したのでした。
本ができ、弟子ができ、教えを円熟させよう、と言う頃になって、最期の戦が彼を呼びました。再度反乱を討伐せよ、とのお達しが陽明の元に舞い込んだのです。
この年、1529年、王陽明57歳の年。
身体の調子が思わしくない王陽明は辞退しましたが、以前の輝かしい戦歴を盾に政府は聞き入れず、彼は異民族の反乱を討伐することになりました。
反乱は無事討伐しましたが、体力を使いきった王陽明は凱旋途中、ついに没してしまいます。
最期のことばは、
わが心光明なり、
また何をか言わん。
だったと、いわれています。
でも、別の資料はこう語る王陽明を見つけていました。
ほかに思うことは無い。
ただ、平生の学問にようやくめどが立った今、
弟子達とこれを大成できなかったことが、残念なだけだ。
と。
王陽明の死後、陽明学はいくつかの党に分かれてしまいました。
そして良知の解釈をめぐり、左派と右派まっぷたつに別れて中国本土では、
徐々に廃れてゆきました。
再び隆盛するのは、19世紀清の終わりごろ。
王陽明の教えは、むしろ中国を離れた朝鮮や日本で強く慕われるようになってゆきます。
:王陽明ざっくり概要 一旦終わり:
:以下ぼろぼろ追記:
一通り王陽明を巡ることはとても難しいです。いろんな要素が絡み合って、
王陽明の辿った人生を追うことはなんとか、本を読めるのですが、その先、
どこの教えがどう、誰に影響したかと言う点は、まだまだ理解が足らず、
教えについてかけないのは、筆者しょうもない限りです。
『伝習録』や『大学問』など、残るさまざまな書籍に出てくるやり取りがまず、
孔子や孟子、朱子学のテキストを前提とした会話が非常に多く、その言葉の
深い理解を求める、というスタイルで話が進んでゆくため、前提知識として
読者もある程度この知識に触れていることが必要になります。
これが相当むつかしく、まず出典の著者の理解を踏まえた上で読まないと、
結局は王陽明のイヤがる100年の誤読へとつながるわけだと思います。
ただ、唯一「つかめたかな」と感じたのは、王陽明がその教えや言葉のはしばしで
大切にしていた「こころ」のありようでした。
今手元にある陽明タン関連の本は、
・『人類の知的遺産25 王陽明』 大西晴隆 講談社 1979
・『王陽明集』 島田虔次 朝日新聞社 1975
の二冊です。
この中、島田さんのほうの『王陽明集』解説にて、こんな一文がありました。
P13 より
「――私はかつて陽明の良知というのはハートの意味であるとしたことがあるが
(『朱子学と陽明学』132ページ)、この考えはいまでも改めようとは思わない。
知行合一という点でも、自他合一という点でも、それは私にはハートと
考えられるのであって、とりわけルソー的なハートというものに最も近いものと考えられるのである。」
あ、ハートでよかったんだ。
すこしほっとした一文でした。
またちょっとだけ、書く時間をもらうつもりです。