届いていました。
:「子供の王国」諸星大二郎作 集英社 1986年
諸星大二郎は、そのぼたぼたとした重たい線が不安感を掻き立てる一時期があった。現在はペンを丸ペンに変え、細いタッチを重ねて、焦点が合わないときのあいまいなゆらぎが健在だが往年の不安感はずっと薄らいでいる。描くものも、読者も変化したためなのだろうか。ともあれ、諸星大二郎はかつてのインタビューに答えたとおり、誰にでも受け入れられるような作品を描けるようになった。と思う。
本書は1980年代前半に発表された作品を収めた短編集だ。収録されている作品は、
「子供の王国」「食事の時間」「広告の町」「感情のある風景」
「ダオナン」「ラストマジック」「会社の幽霊」「王の死」「オー氏の旅行」
の9本だ。(8本目と9本目の順番には不思議な悪意を感じる)。
このうち「オー氏の旅行」以外は全て文庫か単行本に再録されている。ただ、「オー氏の旅行」は、マンガではなく一ページのカートゥンであり、どの本かは失念してしまったが、他の単行本にも見覚えのある数枚が収録されていた。
幼い頃から彼に親しみ、重い筆使いには慣れているつもりだが、未だに正面からページを繰ることが出来ない作品がふたつある。一つは「地獄の戦士」。もう一つが、表題作「子供の王国」だ。前者はずっと未来のどこか、後者は未来の日本。どちらも私たちの生きている生活の延長が舞台である。
「子供の王国」は、『成長停止剤』のある未来だ。子供をおとなにしたくない親が飲ませたその薬は、身体の成長を10歳にとどめるものだった。子供のままで時は過ぎてゆく。子供のままで、頭はどんどんおとなになってゆく。だが、成長の止まった子供達は、親の望みどおり、心の成長も止めて永遠に遊びまわることを望んだ。知識は、おとなのものだ。大人の顔をする、子供でもない子供は、醜悪だ。
主人公の狩場は、親の意向で成長停止剤を飲まず、ふつうの大人として成長したために出世が出来ない。成長停止剤を飲み、子供のまま何十年も過ごしたものたちは”リリパティアン”と呼ばれ、身体は子供、心は大人の彼らが、社会の大切な部分――頭脳の殆どを取り仕切っているためだった。ここで、ん、となる。リリパティアンに「無邪気さ」は無い。大人の世知に長けている子供でも、ほんとうに年端のいかない子供ならばどこかに幼さがある。リリパティアンには、その最後の「幼さ」がない。
リリパティアンは、その振る舞いかた、極端な好悪の情で全てを判断することだけが「子供」なのだった。責任感や、思いやり、といった、他人と一緒に何かをするために大切な、大人となるのに大切な部分が、すっぱりとかけている。
取り残されて大人になった人たちを、リリパティアンは容赦なく攻撃する。ほんとうの子供は学校に取り残されて、大人の世知を身につけるために勉強し続ける。
諸星はこういうとき、何かを突きつけて問題提起するということはしない。ただ、自分の思った世界をそのまま出して、読者にほうりなげて、後ろを向いてすたすた去ってゆく。
諸星の話の中で、最も醜悪な絵づらが連発するマンガがこの作品だと思う。
それが悪いとはひと言も言っていない。むしろ放り投げるようにかける、諸星大二郎の手腕のすさまじさと、冷静さが、私は好きだ。
:「子供の王国」諸星大二郎作 集英社 1986年
諸星大二郎は、そのぼたぼたとした重たい線が不安感を掻き立てる一時期があった。現在はペンを丸ペンに変え、細いタッチを重ねて、焦点が合わないときのあいまいなゆらぎが健在だが往年の不安感はずっと薄らいでいる。描くものも、読者も変化したためなのだろうか。ともあれ、諸星大二郎はかつてのインタビューに答えたとおり、誰にでも受け入れられるような作品を描けるようになった。と思う。
本書は1980年代前半に発表された作品を収めた短編集だ。収録されている作品は、
「子供の王国」「食事の時間」「広告の町」「感情のある風景」
「ダオナン」「ラストマジック」「会社の幽霊」「王の死」「オー氏の旅行」
の9本だ。(8本目と9本目の順番には不思議な悪意を感じる)。
このうち「オー氏の旅行」以外は全て文庫か単行本に再録されている。ただ、「オー氏の旅行」は、マンガではなく一ページのカートゥンであり、どの本かは失念してしまったが、他の単行本にも見覚えのある数枚が収録されていた。
幼い頃から彼に親しみ、重い筆使いには慣れているつもりだが、未だに正面からページを繰ることが出来ない作品がふたつある。一つは「地獄の戦士」。もう一つが、表題作「子供の王国」だ。前者はずっと未来のどこか、後者は未来の日本。どちらも私たちの生きている生活の延長が舞台である。
「子供の王国」は、『成長停止剤』のある未来だ。子供をおとなにしたくない親が飲ませたその薬は、身体の成長を10歳にとどめるものだった。子供のままで時は過ぎてゆく。子供のままで、頭はどんどんおとなになってゆく。だが、成長の止まった子供達は、親の望みどおり、心の成長も止めて永遠に遊びまわることを望んだ。知識は、おとなのものだ。大人の顔をする、子供でもない子供は、醜悪だ。
主人公の狩場は、親の意向で成長停止剤を飲まず、ふつうの大人として成長したために出世が出来ない。成長停止剤を飲み、子供のまま何十年も過ごしたものたちは”リリパティアン”と呼ばれ、身体は子供、心は大人の彼らが、社会の大切な部分――頭脳の殆どを取り仕切っているためだった。ここで、ん、となる。リリパティアンに「無邪気さ」は無い。大人の世知に長けている子供でも、ほんとうに年端のいかない子供ならばどこかに幼さがある。リリパティアンには、その最後の「幼さ」がない。
リリパティアンは、その振る舞いかた、極端な好悪の情で全てを判断することだけが「子供」なのだった。責任感や、思いやり、といった、他人と一緒に何かをするために大切な、大人となるのに大切な部分が、すっぱりとかけている。
取り残されて大人になった人たちを、リリパティアンは容赦なく攻撃する。ほんとうの子供は学校に取り残されて、大人の世知を身につけるために勉強し続ける。
諸星はこういうとき、何かを突きつけて問題提起するということはしない。ただ、自分の思った世界をそのまま出して、読者にほうりなげて、後ろを向いてすたすた去ってゆく。
諸星の話の中で、最も醜悪な絵づらが連発するマンガがこの作品だと思う。
それが悪いとはひと言も言っていない。むしろ放り投げるようにかける、諸星大二郎の手腕のすさまじさと、冷静さが、私は好きだ。