えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・甘さのない甘味

2018年01月13日 | コラム
味を覚えるということは、それだけの印象が舌にあったということで、無性にそれが欲しくなることを体に習慣づけることでもある。決まった時刻に決まったものを食べつけていることは舌ではなく体全体を使った習慣づけだ。どちらの方法がより「特定の食べ物」を欲しくなるのかはわからないものの、食べることを長く続けていれば味のどれかに執着を持つものだ。それがどんな状況であったとしても。

 人に勧められて有名な店の「豆かん」を食べに行った。ちょうど昼時だったので、定食屋で軽くいただいた後、デザート代わりに店へ行き、食券を先に買って席についた。粟ぜんざいが有名と聞いて以前一度頂戴したものの、少し甘すぎたという話をすると知人は「豆かん」を勧めてくれた。お酒を飲む前の底入れや口直しに食べるとのことで、なかなか粋な食べ物のようである。席はそこそこ空いていて、持ち帰りの客のほうが多そうだった。

「豆かん」は、正方形に切った寒天に味付けした赤えんどう豆をかぶせ、黒みつをかけていただく。隣の客は漆の椀に片手を添えて、箸で粟ぜんざいのもちをあんこごとつまんでいる。運ばれたお茶をすすっているとすぐに「豆かん」が来た。「どうぞ」と低めの机に碗が置かれる。見下ろした。既にそれは質量を以て目に訴えていた。妙な笑いを押し殺してスプーンを差し込むと深い。そして豆は大きい。寒天が申し訳なさそうに脇へ底へ引っ込んでいる。食べきれる自信を失いながらも程よく塩気の効いた豆と、豆の塩気へ上手に絡む黒みつの具合のおいしさを覚えるほうに頭を切り替え、甘味処の優雅な響きよりも定食屋のペースで食べぬいた。隣の客はとうに席を立っていた。

 質量に圧倒されながらもそれが口に合ったということはしっかり体は覚えているようで、次にその店へ行く予定を組んだ時は先に「豆かん」を食べ、あとから主食を考えるようにした。それくらいにすかせた腹にはちょうど良く収まってくれ、うまくいった楽しめたとほくそ笑むと同時に、そこへ通いたくなる義務感に襲われてまた今年も予定を淡々と立てている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする