(1)民間人が司法判断にかかわるふたつの制度とは、「裁判員裁判」と「検察審査会」だ。専門教育を受けた裁判官が複数審理の「かけ持ち裁判」で業務多忙になったことが主な要因なのに、これ幸いかどうかはわからないが司法判断に市民感覚を取り入れるという、日本の歴史的倫理観、正義観に根拠する司法制度上、唐突で意義不明の理由で導入されたのが裁判員制度だ。
拳銃で自守自己防衛する歴史を持ち、現在も拳銃社会で自己防衛中心の正義観の根付いた米国では市民参加の陪審員制度が司法原理だ。仁徳、儒教思想の流れの日本社会とは歴史的倫理観、正義観に基本的な落差がある。
裁判員裁判では過度の責任感、正義観、使命感から思い悩む裁判員のストレスも多く聞かれ、当然のように辞退者も多いと言われる。
人が人を裁く不条理の裁判、司法判断にあっては、専門教育、経験を受けた専門裁判官に司法判断、判決を委ねるのが順当な考えだ。国も法科大学院、新司法試験導入で専門裁判官増員策を推進している。
民間人が司法判断にかかわる方法としては、検察判断、司法判断をチェックする機関としての「検察審査会」制度の方がふさわしい。司法に市民感覚を取り入れるとすればこの段階でのチェック機能の方が効果的と言える。
証拠不在のステージに検察を引きづり込んでの二度にわたる検察の不起訴処分の民主党元代表・幹事長の巨額の政治資金記実不載の共同正犯(知っていたか、知らなかったのか)に対する、現在審理中の強制起訴裁判などは不条理(責任者が4億円の巨額の政治資金の出入りを知らなかった)を公然にし、市民感情がこれを許さない司法への民間人参加のいい事例だ。
その強制起訴裁判で初めて判決が出た。未公開株購入を巡る詐欺事件で被告無罪判決だ。立証能力の証拠不在は大きい。人が人を裁く不条理とはいえ、司法判断には証明力のある「証拠」によることが求められて、みだりに司法独断による「状況証拠」などで裁かれるべきものではないからだ。
一方、「状況証拠」により市民感覚としてどうにも理解できない判例で、証明力のある証拠不在でも市民感覚としてあまりに不自然な点があると判断できるものは、不起訴処分で終わらずに検察審査会で審議して司法判断の中でたとえ結果として証拠不十分で無罪となっても「不自然」を解明する「努力」が社会正義のパラダイム(paradaigm)には必要なことだ。
(2)①無免許、②酒気帯び、③車検切れの車で、④車に追突して、⑤逃げる際に一方通行を逆走して人をはねて死亡させた何重にも及ぶ「この上ない危険運転」の被告だが、検察は重い「危険運転致死罪」適用を見送った(より軽い運転過失致死罪適用)。
被害関係者の無念さは計り知れない。日本の刑法、刑訴法が「報復主義(retaliationism)」ではなく「罪刑法定主義」で条文解釈の教条主義、いかなるときでも「正しい」適用が基本だからだ。
たとえば前例の場合、「酒気帯び」運転でも「危険運転」適用の解釈は「正常な運転が困難」な場合に限るとなる。現在の法律では結果とは関係なく「酒気帯び」でも「正常な運転」もあるということだ。
司法独断、反比例解釈の入り込む余地があってはならないから一概には言えないが、これはもう司法の教条主義、条文のただ「言葉遊び」の領域だ。
法律適用の精度、見直し、改正が必要だ。
拳銃で自守自己防衛する歴史を持ち、現在も拳銃社会で自己防衛中心の正義観の根付いた米国では市民参加の陪審員制度が司法原理だ。仁徳、儒教思想の流れの日本社会とは歴史的倫理観、正義観に基本的な落差がある。
裁判員裁判では過度の責任感、正義観、使命感から思い悩む裁判員のストレスも多く聞かれ、当然のように辞退者も多いと言われる。
人が人を裁く不条理の裁判、司法判断にあっては、専門教育、経験を受けた専門裁判官に司法判断、判決を委ねるのが順当な考えだ。国も法科大学院、新司法試験導入で専門裁判官増員策を推進している。
民間人が司法判断にかかわる方法としては、検察判断、司法判断をチェックする機関としての「検察審査会」制度の方がふさわしい。司法に市民感覚を取り入れるとすればこの段階でのチェック機能の方が効果的と言える。
証拠不在のステージに検察を引きづり込んでの二度にわたる検察の不起訴処分の民主党元代表・幹事長の巨額の政治資金記実不載の共同正犯(知っていたか、知らなかったのか)に対する、現在審理中の強制起訴裁判などは不条理(責任者が4億円の巨額の政治資金の出入りを知らなかった)を公然にし、市民感情がこれを許さない司法への民間人参加のいい事例だ。
その強制起訴裁判で初めて判決が出た。未公開株購入を巡る詐欺事件で被告無罪判決だ。立証能力の証拠不在は大きい。人が人を裁く不条理とはいえ、司法判断には証明力のある「証拠」によることが求められて、みだりに司法独断による「状況証拠」などで裁かれるべきものではないからだ。
一方、「状況証拠」により市民感覚としてどうにも理解できない判例で、証明力のある証拠不在でも市民感覚としてあまりに不自然な点があると判断できるものは、不起訴処分で終わらずに検察審査会で審議して司法判断の中でたとえ結果として証拠不十分で無罪となっても「不自然」を解明する「努力」が社会正義のパラダイム(paradaigm)には必要なことだ。
(2)①無免許、②酒気帯び、③車検切れの車で、④車に追突して、⑤逃げる際に一方通行を逆走して人をはねて死亡させた何重にも及ぶ「この上ない危険運転」の被告だが、検察は重い「危険運転致死罪」適用を見送った(より軽い運転過失致死罪適用)。
被害関係者の無念さは計り知れない。日本の刑法、刑訴法が「報復主義(retaliationism)」ではなく「罪刑法定主義」で条文解釈の教条主義、いかなるときでも「正しい」適用が基本だからだ。
たとえば前例の場合、「酒気帯び」運転でも「危険運転」適用の解釈は「正常な運転が困難」な場合に限るとなる。現在の法律では結果とは関係なく「酒気帯び」でも「正常な運転」もあるということだ。
司法独断、反比例解釈の入り込む余地があってはならないから一概には言えないが、これはもう司法の教条主義、条文のただ「言葉遊び」の領域だ。
法律適用の精度、見直し、改正が必要だ。