いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

音楽の未来。 the future of music

2016-12-18 19:40:49 | 日記
 (1)クラシック(classic music)の世界でも今だにベートーベン、モーツアルト、シューベルトに匹敵する、凌駕(りょうが)する音楽作品が出てこないのは、感性の問題なのか、能力の問題なのか、環境の問題なのかいろいろあるとは思うが、音楽がずっと変わらずに五線譜の世界の文化、芸術、哲学であることが大きいのではないのか。

 近年のポピュラー(popular music)を含めた音楽、文化、芸術の衰退を「五線譜の限界」と書いたが、それでもやはりメロディ、リズム、ハーモニーの音楽の三要素に挑戦する思慮深い意欲、意志、個性が不足していることも大きい。

 (2)世界の音楽はそうして行き詰まって「ラップ」に活路を見出した。リズム中心の音楽で話すように、語るように抑揚のない音階でいつまでも続く。特に音感さえよければ特別な音楽技法も必要ではなく、誰でも普通になじめて話すように語るように思いを伝えることができる。

 メロディ、ハーモニー抜きのリズム中心の音楽、音階が取り上げられて世界音楽に普及したことは身近な音楽として支持を集めたものだが、理想と現実感のギャップの接近がその後の音楽の衰退、減退をさらに加速したと考える。

 (3)もちろん「ラップ」も多様な音楽の世界で確固たる地位、立場を得たということで、「ラップ」に何も責任、問題はないが音楽の取り組み方法論(methodology)としてメロディ、ハーモニーが脇に置かれる音楽の特性、特徴である多様性が失われた結果、音楽文化、芸術、哲学が平凡に推移して誰もが注目されるいわゆるヒット作品というものがあらわれなくなった。

 西洋音階に見事に日本語を乗せた先駆者、ニューミュージックといわれたチューリップの財津和夫さんは以前、我々が音楽性の取り組みをほとんどやってきたので、今の若いミュージシャンは気の毒だ、大変だろうと言っていた。

 (4)やはり「五線譜の限界」に近い音楽感想、感慨である。ボブ・ディランはアコースティックギターをエレキに持ち替えたし、マイルス・デービスはモダーンジャズ・トランペットに電子音を取りいれた。一時、ともにトラディショナルからは強い違和感、非難を浴びた。

 それでもポピュラーは「ラップ」とかリズム中心の音階に救いを求めることもできたが(それがポピュラー衰退、減退を加速したと考えるが)、クラシックとなると現代クラシック音楽もあるがなかなか地位、立場を見出せる存在にはならない。

 (5)パラドックス(paradox)として、それだからこそ数千年の伝統持続の「クラシック」という音楽ジャンルがある、価値があるといえる。
 「クラシック」は音楽ジャンルとともに、数千年前の宮廷音楽、貴族音楽、舞踏音楽、オペラなど歴史的伝統「クラシック」様式美(mode of grace)そのものをも直接指し示す文化、芸術、哲学そのものでもある。

 このまま人類世界が何百、何千年を経てもベートーベン、モーツアルト、シューベルトを凌駕するような「クラシック」の誕生はあるのか、考えさせられる偉大さだ。

 (6)その頃には「五線譜」音階がどうなっているのか、まったくあたらしい作曲技法、技巧、旋律がつくり出されているのか。
 音楽は変わらなくても普遍的な価値はあるし、高いし、偉大だが、変わってもおかしくはない「未来」も必ずある。

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