チューリップ(Tulip)の歴史の一ページ。
1960年代後半の日本の音楽シーンは、グループサウンズの流れもおさまって、
フォークが台頭し始めていた。その大きな源流のひとつの福岡では、アマチュアミ
ュージシャンのムーブメント(movement)も盛んで、その中で、福岡に財津和夫あ
り、と言われたチューリップはすでに多くの支持を受けていた。
財津和夫は、日本でビートルズのような音楽、バンドをやりたいと、当時、福岡
で活動中の洋楽系のアマチュアバンド・リーダーから、これぞというメンバーを引
き抜いて、5人のチューリップを結成した。
福岡では、バンド潰しの財津、として名を馳(は)せた。
財津和夫(V G Pf)、吉田彰(B 1980年脱退。ベースは宮城が加入)、安
部俊幸(G)、上田雅利(Dr)、姫野達也(V G Pf)。
結成当時、未成年で一番若い姫野の実家は、父親が固い仕事で、プロミュージ
シャンとして上京するのにあたり、リーダーの財津は、直接、姫野の父親に談判し
て上京を決めたとの話も残っている。
財津和夫は、ビートルズのようなツイン・ボーカル(twin vocal)の音楽、バン
ドを目指していたので、チューリップでは姫野をボーカリストとして育てたいとい
う気持があったのではないか。
当時、活動の中心としていた福岡のライヴハウス照和で自主制作録音した財津
作品のオリジナル「魔法の黄色い靴」のデモテープを1971年末に財津ひとり上京
して東芝レコードに持ち込み、当時のディレクター新田和長に認められて、1972年
1月にチューリップとして上京し、音楽シーンにデヴューする。
財津和夫さんの音楽を人生に賭けた、自らの時代と音楽をひらくフロンティア(frontier)
な生き方が印象的だった。
1973年、第3作目の財津の福岡から上京する時の思いをモチーブ(motive)に
作品にした「心の旅」が、1年をかけて全国ヒットとなり、チューリップはニュー
ミュージック・シーンをけん引するバンドとなった。
「心の旅」。ずっとチューリップのリードボーカルを担当していた財津に変わって、
スタッフの助言(当時シンコーミュージックの草野昌一という説がある)で一番若
い姫野がリードボーカルを担当し、一躍有名(アイドル)バンドとなる。
はからずも、財津が目指していたツイン・ボーカルの誕生であった。
財津には1974年に、財津自身の歌いたい楽曲をということで、周囲の反対も
あった中でピアノバラードの「青春の影」を発表して、現在、この楽曲はミュージ
シャンの間でも支持が多く、ステージのセットリストに欠かせない名曲となっている。
姫野達也は、キーボード、ギターとインストルメンタル・スキル(instrumental
skill)で、財津サウンド、チューリップを支えて、多才な働きをしている。その
スキルは、チューリップ解散(実際は、1985年8月に脱退)後に親友の浜田省吾
のコンサートバンドメンバーとして、ライヴを支えたこともある。
チューリップとしてはサービス精神も旺盛で、1997年からの再結成したライ
ヴ・アクト・チューリップコンサートでは、すっかり肥満体質となった身体で縦横
無尽に軽やかな動きでステージを走り回るパフォーマンスも見せた(自身の誕生日
のこのコンサートでは、客席に降りてきて半周したこともある)。
チューリップとしては(?)、育ちのよさもあり、普段はおだやかな話しぶり、
振る舞い、ひとのよさがうかがえる。
1984年に、姫野のお嬢さん誕生に財津が詞を書いて、姫野が曲をつけた「こ
の小さな掌」をアルバム「I dream」に収録発表した。
こどもへのこまやかな愛情表現、父娘の絆を際立たせたメルヘン調の美しい詞曲
(lyric melody)のバラードで、再結成のチューリップコンサートでも披露してい
る。
この楽曲には、財津としては、当時、まだこどもの姫野を親を説得してまで成功
のあてのない東京に誘い、10年ほどたってチューリップとして社会的評価も受け
て、責任を果たした安ど感と親のかわりとしての子を思う気持があったのではない
か。1997年のチューリップの再結成は、その後1985年にチューリップを去
った姫野が財津に相談をもちかけて始まったと聞いている。
その誕生を財津と父親の姫野に祝福されて、チューリップの歴史とともに歩んだ
お嬢さん、近々、結婚されることになった。チューリップの歴史の一ページ。
1960年代後半の日本の音楽シーンは、グループサウンズの流れもおさまって、
フォークが台頭し始めていた。その大きな源流のひとつの福岡では、アマチュアミ
ュージシャンのムーブメント(movement)も盛んで、その中で、福岡に財津和夫あ
り、と言われたチューリップはすでに多くの支持を受けていた。
財津和夫は、日本でビートルズのような音楽、バンドをやりたいと、当時、福岡
で活動中の洋楽系のアマチュアバンド・リーダーから、これぞというメンバーを引
き抜いて、5人のチューリップを結成した。
福岡では、バンド潰しの財津、として名を馳(は)せた。
財津和夫(V G Pf)、吉田彰(B 1980年脱退。ベースは宮城が加入)、安
部俊幸(G)、上田雅利(Dr)、姫野達也(V G Pf)。
結成当時、未成年で一番若い姫野の実家は、父親が固い仕事で、プロミュージ
シャンとして上京するのにあたり、リーダーの財津は、直接、姫野の父親に談判し
て上京を決めたとの話も残っている。
財津和夫は、ビートルズのようなツイン・ボーカル(twin vocal)の音楽、バン
ドを目指していたので、チューリップでは姫野をボーカリストとして育てたいとい
う気持があったのではないか。
当時、活動の中心としていた福岡のライヴハウス照和で自主制作録音した財津
作品のオリジナル「魔法の黄色い靴」のデモテープを1971年末に財津ひとり上京
して東芝レコードに持ち込み、当時のディレクター新田和長に認められて、1972年
1月にチューリップとして上京し、音楽シーンにデヴューする。
財津和夫さんの音楽を人生に賭けた、自らの時代と音楽をひらくフロンティア(frontier)
な生き方が印象的だった。
1973年、第3作目の財津の福岡から上京する時の思いをモチーブ(motive)に
作品にした「心の旅」が、1年をかけて全国ヒットとなり、チューリップはニュー
ミュージック・シーンをけん引するバンドとなった。
「心の旅」。ずっとチューリップのリードボーカルを担当していた財津に変わって、
スタッフの助言(当時シンコーミュージックの草野昌一という説がある)で一番若
い姫野がリードボーカルを担当し、一躍有名(アイドル)バンドとなる。
はからずも、財津が目指していたツイン・ボーカルの誕生であった。
財津には1974年に、財津自身の歌いたい楽曲をということで、周囲の反対も
あった中でピアノバラードの「青春の影」を発表して、現在、この楽曲はミュージ
シャンの間でも支持が多く、ステージのセットリストに欠かせない名曲となっている。
姫野達也は、キーボード、ギターとインストルメンタル・スキル(instrumental
skill)で、財津サウンド、チューリップを支えて、多才な働きをしている。その
スキルは、チューリップ解散(実際は、1985年8月に脱退)後に親友の浜田省吾
のコンサートバンドメンバーとして、ライヴを支えたこともある。
チューリップとしてはサービス精神も旺盛で、1997年からの再結成したライ
ヴ・アクト・チューリップコンサートでは、すっかり肥満体質となった身体で縦横
無尽に軽やかな動きでステージを走り回るパフォーマンスも見せた(自身の誕生日
のこのコンサートでは、客席に降りてきて半周したこともある)。
チューリップとしては(?)、育ちのよさもあり、普段はおだやかな話しぶり、
振る舞い、ひとのよさがうかがえる。
1984年に、姫野のお嬢さん誕生に財津が詞を書いて、姫野が曲をつけた「こ
の小さな掌」をアルバム「I dream」に収録発表した。
こどもへのこまやかな愛情表現、父娘の絆を際立たせたメルヘン調の美しい詞曲
(lyric melody)のバラードで、再結成のチューリップコンサートでも披露してい
る。
この楽曲には、財津としては、当時、まだこどもの姫野を親を説得してまで成功
のあてのない東京に誘い、10年ほどたってチューリップとして社会的評価も受け
て、責任を果たした安ど感と親のかわりとしての子を思う気持があったのではない
か。1997年のチューリップの再結成は、その後1985年にチューリップを去
った姫野が財津に相談をもちかけて始まったと聞いている。
その誕生を財津と父親の姫野に祝福されて、チューリップの歴史とともに歩んだ
お嬢さん、近々、結婚されることになった。チューリップの歴史の一ページ。