映画「バケモノの子」を見ました。
交通事故で母親を亡くした少年・蓮。離婚したとはいえ来ない父親、跡継ぎとしての自分にしか興味が無い親戚に嫌気が差し、蓮はあても無く夜の街をさ迷っていた。そんな折、蓮の目の前に1人の大男が姿を見せる。彼の手や顔つきはまるで熊のようだった。
大男が去っていった後、蓮は警察に捕まりそうになるも必死の逃亡の末、大男と小柄な男が路地に入っていくのを目撃する。不可思議な路地を進んでいった先には、バケモノたちが住む「渋天街」が広がっていた。大男・熊徹はバケモノたちの長たる宗師を目指しており、そのためには弟子を取る様に当代の宗師から告げられており、何と蓮を弟子にしようとする。
熊徹は名前を名乗らぬ蓮の年が9歳だと知ると、彼を「九太」と呼び、弟子として育てようとする。だが蓮=九太にその気は無く、九太は家を飛び出してしまう。九太を探しているうちに、熊徹はもう1人の宗師候補である猪王山と出会う。猪王山は熊徹が人間の子供を弟子に取ろうとしていることを知り、「人間は心に闇を抱える」としてその危険性を指摘するも熊徹は取り合わず、果ては宗師候補を決するための殴り合いにまで発展してしまう。
その戦いにおいて、九太は周りの皆が猪王山を応援するのを目の当たりにし、熊徹も孤独なのだと悟る。逆境の中においても奮闘する熊徹に対し、九太は罵倒にも似た声援を送るのだった。
以来、九太は熊徹の強さを認め、彼に師事を受けることを決める・・・が、1人で強くなってしまった熊徹は教えるのが下手であり「胸の中の剣が大事」と言われても、九太にはイマイチピンと来ない。各地の賢者を巡った後、九太はふと熊徹の足さばきだけでも、と彼の真似を試みる。それがいつしか相手の行動の先を読むことへと繋がっていった。こうして熊徹は九太に剣術や格闘を教える代わりに、九太は熊徹に先を読むコツを教えるのだった・・・
そして月日は流れ、九太が17歳になっていた。九太は偶然帰還した人間界で楓という少女に出会い、新たな世界を知ることの楽しさを知り、その中で父親との再会も果たす。渋天街と渋谷、2つの街の間で揺れ動く九太の心の行く先は・・・
といった感じの物語が繰り広げられる「バケモノの子」。サマーウォーズが家族の絆の強さ、おおかみこどもが子供の成長を描く物語だったとするならば、この作品は血の繋がりを越えた繋がりの大切さや、自分自身と向き合うことの大切さを描いていたように感じます。
半生をバケモノに育てられた少年・九太。彼は自分が人間であることを自覚しつつ、大人へと成長していきました。その成長過程においては、熊徹を初めとした多くのバケモノが関わっています。最初は九太を厄介がっていた多々良も途中から九太を認め、最終的には百秋坊共々、九太を誇らしく思うようになっていました。親類ではないにしろ、側にいて、あれこれと叱ってくれる存在の大切さが彼らを通して伝わってきます。
また、猪王山の息子・二郎丸も、最初は九太をいじめていたものの、後に彼の強さを目の当たりにして良い友人となってくれました。熊徹と猪王山が宗師の座を賭けて戦う前日も、「どちらが勝っても、これからも友達だ」とまで言ってくれましたし、根は優しい子なのでしょう。負けた相手の強さを認めることが出来てこそ、人は成長できるのだと感じます。
その一方で、猪王山のもう1人の息子・一郎彦。物語の後半で、彼が実は人間の子供であったことが明かされます。赤ん坊だった頃に猪王山が人間界で捨てられていた一郎彦を拾い上げ、自分の息子として育てたものの「バケモノの子」であることを信じようとすればするほど、二郎丸のように牙が生えてこない自分に戸惑い、最終的には心の闇を大きくする結果となってしまいました。
同じバケモノに育てられた身でありながらも、人間として生きた九太と、バケモノとして信じ込まされてきた一郎彦がたどった道は大きく異なりました。
まぁ九太が多少物心ついた時に渋天街に来たのに対し、一郎彦が赤ん坊の頃に拾われてきたわけですから、そこらへんの違いもあるでしょうが、猪王山は忙しさの中でも、もっと自分の息子にしっかりと向き合うべきだったんでしょう。対する熊徹は、不器用ながらも日々九太と面と向かって対話し、言いたいことは言い合っていたわけですから、傍目から見ると喧嘩しているように見えて、その実、本音でぶつかりあえる良い関係だったのだと思います。
一郎彦が人間であることは、彼らが成長した後の話で、一郎彦が口元を隠しているシーンから何となく読み取れました。ただ、少年時代の1シーンで牙みたいな歯が見えたので、その時は一郎彦もバケモノの子だと信じていました。後で見返すと、牙っぽく見えたのは犬歯だったっぽいです。
結果的に一郎彦は九太と熊徹の活躍で元に戻るわけですが、彼はこれからどういう風に生きていくんでしょうね・・・人間であることを自覚し、その上で猪王山の息子として、二郎丸の兄として渋天街で暮らしていくのでしょうか。
幼い頃の九太が周りの全てを「大嫌い」だと言っていたように、人間は心の中に闇を抱えて生きている。しかしそれは九太に限った話ではなく、物語中盤で出会う楓だって同じこと。親の期待に応えようとはしているものの、自分の考えを聞いてくれない親に対して不満を抱いていました。熊徹や父親とのいざこざの中で、どうしようもなく心の闇に苛まれてしまった九太を救ってくれたのは、そんな楓の一言でした。九太だけじゃない、楓だけじゃない。誰だって抱えている。だから大丈夫だと、そんな一言が九太に落ち着きを取り戻させてくれました。
楓は闇に飲まれた一郎彦に対しても、闇に立ち向かっている自分たちが負けるわけが無いといった風な啖呵を切っていましたし、かなり芯のしっかりとした女の子で、好感がもてました。
途中、九太が人間界に戻った際に「蓮」と名乗り、その後渋天街に戻った際は「九太」と呼ばれる。名前の呼び方一つとっても、人間界と渋天街の狭間で揺れ動く九太の心情が描かれていたように思えます。
最後は一郎彦と決着をつけるべく、人間界での戦闘に。九太はその命を賭して一郎彦の闇を消し去ろうとしますが、そこへ駆けつけたのは「熊徹」という名の燃え盛る剣でした。猪王山との戦いに勝った熊徹は、宗師としての転生権を当代宗師から譲り受け、九十九神に転生。そして大太刀となって九太の元に駆けつけ、彼の「胸の中の剣」と化しました。
半端者の熊徹が出来る、九太に対する最後の指導。それが九太の心の穴を埋めてやることでした。煌々と燃え盛る暖かい炎が九太の心の穴を埋めたのに対し、一郎彦が創り出した影のクジラは暗く、青白い光を放っていました。こうした色の対比も面白いですね。
決着をつけた後も、熊徹は九太の胸の中の剣として、いつでも彼を見守り続ける。その手に剣を握らずとも、心の中に剣を宿した九太は多々良たちも認める最強の剣士。剣となった熊徹の笑顔でこの作品は締めくくられます。
人間、バケモノに限らず、誰しも1人だけの強さには限界がある。そんな時、互いを支え、時に相手を思って叱ってくれる周囲の存在が大切となってくる。時に迷い、苦しむことがあっても大丈夫。それは自分1人じゃなく、他の皆も同じこと。そんな時こそ、本音を言い合える存在の大切さが胸にしみる。
多くの人によって育まれた「胸の中の剣」。それさえあれば、どんな道だって切り開いていける。どんな時だって1人じゃない。胸の中には自分を支えてくれた多くの人の思いが詰まっている。その事を忘れず、自分が何者であるかを忘れずに進んでいける・・・そんな風に感じた「バケモノの子」でした。
・・・さて、EDを見た方なら、多分私がどこで反応したかお分かりでしょう。EDの声の出演一覧に悠木碧さんの名前がありまして。実のところ、視聴中も「どっかにいたような・・・」とうっすら感じていました。てなわけで、1週した後は即座にどこで悠木さんが出ていたのかを探し出しましたとさ(笑。
そんでもって、出てるっぽいシーンを見返したところ、ここかな?というシーンはありました。熊徹と猪王山の最初の決闘時、「新しい宗師が決まるの!?」と盛り上がっていたバケモノの声を担当されたのが、悠木さんだと思います。あとは、一郎彦の周りにいた女の子たちの歓声もそれっぽく聞こえました。
・・・今回は映像ソフトでの視聴となったわけですが、たとえ映画館に行っていたとしても、どのみち、このことを確認するためだけに映像ソフトをレンタルしていたかもなぁ・・・と(苦笑。
交通事故で母親を亡くした少年・蓮。離婚したとはいえ来ない父親、跡継ぎとしての自分にしか興味が無い親戚に嫌気が差し、蓮はあても無く夜の街をさ迷っていた。そんな折、蓮の目の前に1人の大男が姿を見せる。彼の手や顔つきはまるで熊のようだった。
大男が去っていった後、蓮は警察に捕まりそうになるも必死の逃亡の末、大男と小柄な男が路地に入っていくのを目撃する。不可思議な路地を進んでいった先には、バケモノたちが住む「渋天街」が広がっていた。大男・熊徹はバケモノたちの長たる宗師を目指しており、そのためには弟子を取る様に当代の宗師から告げられており、何と蓮を弟子にしようとする。
熊徹は名前を名乗らぬ蓮の年が9歳だと知ると、彼を「九太」と呼び、弟子として育てようとする。だが蓮=九太にその気は無く、九太は家を飛び出してしまう。九太を探しているうちに、熊徹はもう1人の宗師候補である猪王山と出会う。猪王山は熊徹が人間の子供を弟子に取ろうとしていることを知り、「人間は心に闇を抱える」としてその危険性を指摘するも熊徹は取り合わず、果ては宗師候補を決するための殴り合いにまで発展してしまう。
その戦いにおいて、九太は周りの皆が猪王山を応援するのを目の当たりにし、熊徹も孤独なのだと悟る。逆境の中においても奮闘する熊徹に対し、九太は罵倒にも似た声援を送るのだった。
以来、九太は熊徹の強さを認め、彼に師事を受けることを決める・・・が、1人で強くなってしまった熊徹は教えるのが下手であり「胸の中の剣が大事」と言われても、九太にはイマイチピンと来ない。各地の賢者を巡った後、九太はふと熊徹の足さばきだけでも、と彼の真似を試みる。それがいつしか相手の行動の先を読むことへと繋がっていった。こうして熊徹は九太に剣術や格闘を教える代わりに、九太は熊徹に先を読むコツを教えるのだった・・・
そして月日は流れ、九太が17歳になっていた。九太は偶然帰還した人間界で楓という少女に出会い、新たな世界を知ることの楽しさを知り、その中で父親との再会も果たす。渋天街と渋谷、2つの街の間で揺れ動く九太の心の行く先は・・・
といった感じの物語が繰り広げられる「バケモノの子」。サマーウォーズが家族の絆の強さ、おおかみこどもが子供の成長を描く物語だったとするならば、この作品は血の繋がりを越えた繋がりの大切さや、自分自身と向き合うことの大切さを描いていたように感じます。
半生をバケモノに育てられた少年・九太。彼は自分が人間であることを自覚しつつ、大人へと成長していきました。その成長過程においては、熊徹を初めとした多くのバケモノが関わっています。最初は九太を厄介がっていた多々良も途中から九太を認め、最終的には百秋坊共々、九太を誇らしく思うようになっていました。親類ではないにしろ、側にいて、あれこれと叱ってくれる存在の大切さが彼らを通して伝わってきます。
また、猪王山の息子・二郎丸も、最初は九太をいじめていたものの、後に彼の強さを目の当たりにして良い友人となってくれました。熊徹と猪王山が宗師の座を賭けて戦う前日も、「どちらが勝っても、これからも友達だ」とまで言ってくれましたし、根は優しい子なのでしょう。負けた相手の強さを認めることが出来てこそ、人は成長できるのだと感じます。
その一方で、猪王山のもう1人の息子・一郎彦。物語の後半で、彼が実は人間の子供であったことが明かされます。赤ん坊だった頃に猪王山が人間界で捨てられていた一郎彦を拾い上げ、自分の息子として育てたものの「バケモノの子」であることを信じようとすればするほど、二郎丸のように牙が生えてこない自分に戸惑い、最終的には心の闇を大きくする結果となってしまいました。
同じバケモノに育てられた身でありながらも、人間として生きた九太と、バケモノとして信じ込まされてきた一郎彦がたどった道は大きく異なりました。
まぁ九太が多少物心ついた時に渋天街に来たのに対し、一郎彦が赤ん坊の頃に拾われてきたわけですから、そこらへんの違いもあるでしょうが、猪王山は忙しさの中でも、もっと自分の息子にしっかりと向き合うべきだったんでしょう。対する熊徹は、不器用ながらも日々九太と面と向かって対話し、言いたいことは言い合っていたわけですから、傍目から見ると喧嘩しているように見えて、その実、本音でぶつかりあえる良い関係だったのだと思います。
一郎彦が人間であることは、彼らが成長した後の話で、一郎彦が口元を隠しているシーンから何となく読み取れました。ただ、少年時代の1シーンで牙みたいな歯が見えたので、その時は一郎彦もバケモノの子だと信じていました。後で見返すと、牙っぽく見えたのは犬歯だったっぽいです。
結果的に一郎彦は九太と熊徹の活躍で元に戻るわけですが、彼はこれからどういう風に生きていくんでしょうね・・・人間であることを自覚し、その上で猪王山の息子として、二郎丸の兄として渋天街で暮らしていくのでしょうか。
幼い頃の九太が周りの全てを「大嫌い」だと言っていたように、人間は心の中に闇を抱えて生きている。しかしそれは九太に限った話ではなく、物語中盤で出会う楓だって同じこと。親の期待に応えようとはしているものの、自分の考えを聞いてくれない親に対して不満を抱いていました。熊徹や父親とのいざこざの中で、どうしようもなく心の闇に苛まれてしまった九太を救ってくれたのは、そんな楓の一言でした。九太だけじゃない、楓だけじゃない。誰だって抱えている。だから大丈夫だと、そんな一言が九太に落ち着きを取り戻させてくれました。
楓は闇に飲まれた一郎彦に対しても、闇に立ち向かっている自分たちが負けるわけが無いといった風な啖呵を切っていましたし、かなり芯のしっかりとした女の子で、好感がもてました。
途中、九太が人間界に戻った際に「蓮」と名乗り、その後渋天街に戻った際は「九太」と呼ばれる。名前の呼び方一つとっても、人間界と渋天街の狭間で揺れ動く九太の心情が描かれていたように思えます。
最後は一郎彦と決着をつけるべく、人間界での戦闘に。九太はその命を賭して一郎彦の闇を消し去ろうとしますが、そこへ駆けつけたのは「熊徹」という名の燃え盛る剣でした。猪王山との戦いに勝った熊徹は、宗師としての転生権を当代宗師から譲り受け、九十九神に転生。そして大太刀となって九太の元に駆けつけ、彼の「胸の中の剣」と化しました。
半端者の熊徹が出来る、九太に対する最後の指導。それが九太の心の穴を埋めてやることでした。煌々と燃え盛る暖かい炎が九太の心の穴を埋めたのに対し、一郎彦が創り出した影のクジラは暗く、青白い光を放っていました。こうした色の対比も面白いですね。
決着をつけた後も、熊徹は九太の胸の中の剣として、いつでも彼を見守り続ける。その手に剣を握らずとも、心の中に剣を宿した九太は多々良たちも認める最強の剣士。剣となった熊徹の笑顔でこの作品は締めくくられます。
人間、バケモノに限らず、誰しも1人だけの強さには限界がある。そんな時、互いを支え、時に相手を思って叱ってくれる周囲の存在が大切となってくる。時に迷い、苦しむことがあっても大丈夫。それは自分1人じゃなく、他の皆も同じこと。そんな時こそ、本音を言い合える存在の大切さが胸にしみる。
多くの人によって育まれた「胸の中の剣」。それさえあれば、どんな道だって切り開いていける。どんな時だって1人じゃない。胸の中には自分を支えてくれた多くの人の思いが詰まっている。その事を忘れず、自分が何者であるかを忘れずに進んでいける・・・そんな風に感じた「バケモノの子」でした。
・・・さて、EDを見た方なら、多分私がどこで反応したかお分かりでしょう。EDの声の出演一覧に悠木碧さんの名前がありまして。実のところ、視聴中も「どっかにいたような・・・」とうっすら感じていました。てなわけで、1週した後は即座にどこで悠木さんが出ていたのかを探し出しましたとさ(笑。
そんでもって、出てるっぽいシーンを見返したところ、ここかな?というシーンはありました。熊徹と猪王山の最初の決闘時、「新しい宗師が決まるの!?」と盛り上がっていたバケモノの声を担当されたのが、悠木さんだと思います。あとは、一郎彦の周りにいた女の子たちの歓声もそれっぽく聞こえました。
・・・今回は映像ソフトでの視聴となったわけですが、たとえ映画館に行っていたとしても、どのみち、このことを確認するためだけに映像ソフトをレンタルしていたかもなぁ・・・と(苦笑。