現在、巷では 「大型連休中」 だが、この連休では多くの人たちが海外や国内の行楽地で休みを楽しんでいるだろうが 「介護する人、介護される人」 の世界では、いつものように変わらぬ日々を過ごしていることだろう。
私たち夫婦にも連休は関係無く、いつものように9時過ぎには空堀川沿いを歩いていた。
陽気も穏やかだから、今日はいつもと違うコースを歩いてみたが、女医さんからの 「散歩は15分以内」 のコメントは守らなければならないからショートコースで我慢するしかない。
右岸を上流に向かって歩いていたら画像の 「ソロバン塾」 の看板があった。今はソロバンという計算機はどのように子供さんの世界に影響しているのだろうか?
この看板を見て私は懐かしく小学生の頃を想い出した。
母から 「これから大きくなったら必要だから、ソロバン塾に通いなさい」 と言われたのは小学五年生の時だった。そして目標は小学生の内に三級に合格すること、塾通いは小学生で終わりを約束させられた。
だが当時、市内にはソロバン塾はなかったようで、遠く田無 (今の西東京市) にある名の知れたソロバン塾に通うことになった。
子供心に独りで東村山駅から西武線に乗って、田無駅まで通うことに不安があったが、母の言葉にはそれなりの意味があったので我慢して通うことになった。
その頃、全校でソロバンを習っている生徒は私一人だったようで、それが判ると算数の時間には先生から 「少し手伝いなさい」 と壇上で言われるままに数字などを書く手伝いもしていた。
最初は気乗りしなかった塾通いも段々と慣れて、特に電車に乗ることが楽しくなったことを憶えている。
目標だった三級も六年生の時に合格、母との約束を守れた嬉しさは相当な喜びだった。だが、あまり裕福でなかった家庭だから、電車賃とか塾の費用などで母は随分と苦労したであろうが、そのようなことに気付くはずもなかった。
さてその三級の腕前は社会人になって多いに発揮することになった。今のように計算機など無い時代だったからソロバンは有効な計算機だった。
特に私はジェットエンジンのテストが仕事だったから、テスト後の性能計算ではそのソロバンの腕が大きな助けとなった。
当時はどの机の引き出しを開けても必ずソロバンがあったが、その後、いつの間にか、デジタル計算機に押されてソロバンの出番が少なくなってしまった。
このようにソロバンには多いにお世話になったが、今日この看板を見て改めて亡き母の先見の深さに感謝するばかりだった。
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