先日、体験したシェニール織が
縁かがりをされて出来上がってきたので、
母に見せたら、
祖母も織物をしていたという
話をはじめました。
母方の祖母はずっと私が赤ちゃんのときから
同居していました。
27歳で夫を亡くし、以来女手ひとつで母を育てた祖母です。
田舎の大家族ですから、
義弟が跡をとった家ではいろいろと
気苦労が絶えなかったようですが、
幼少の母を置いていくのはかわいそうと、
再婚の話には耳を貸さなかったそうです。
明治生まれの大柄で朗らかな祖母は
故郷熊本から大阪で所帯を持った母に呼ばれて
一緒に暮らすようになったのです。
同居したときには、若い時の農家の嫁としての
重労働がたたって、寝たり起きたり状態だったのですが、
祖母が庭の花を育てたり、布団の打ち直しをしたり、
反物の洗い張りをしたりするのは見ていました。
さらに、熊本では織物をしていたという話、
今日初めて聞きました。
家長は公務員系の仕事をしていたらしいので、
農業は女性の仕事。
農業の傍ら養蚕をしていたというのは、
聞いたことがあります。
そこでできた繭は売っていたのですが、
家族用の織物を作る分は残し、
糸を作り、機を織り、反物を染め、
着物に仕立てていたらしいのです。
稲作は秋まで忙しいはずですから、
冬の農閑期の仕事だったのでしょうか。
忙しい家事の合間の仕事ですから、
一日に織れる量はそんなになかったと思います。
近所の久留米織りの名手に習い、
矢絣なども上手に織っていたし、
染めも型紙を買ってきて自分でしていたそうです。
近隣で織物が盛んだったわけではなくて、
の中ではその名手と祖母だけが織っていたようです。
何から何まで!
生活を紡ぎだす手であったのだなあと思います。

タンスの底から出てきたのは、祖母が織って
大阪で染屋さんに染めてもらったという着物。

これは母用にしては地味すぎるような・・(・ω・;A

でも見てください!

袖の内側と背中は朱色の裏地です。

さらに歩くと見える裾の部分にこのおしゃれ!

これは母が18歳ころ着ていたという長襦袢。
派手です・・(・ω・;A

この褄の部分の仕立てが難しいのだそうです。
赤い部分を「すうっと中に入れるのが難しい」
表はものすごく地味、見えないところで派手にしたのですね。
これは全部祖母が決めた色柄ということです。
一枚の布、一枚の着物がいろいろと語ってくれました。
縁かがりをされて出来上がってきたので、
母に見せたら、
祖母も織物をしていたという
話をはじめました。
母方の祖母はずっと私が赤ちゃんのときから
同居していました。
27歳で夫を亡くし、以来女手ひとつで母を育てた祖母です。
田舎の大家族ですから、
義弟が跡をとった家ではいろいろと
気苦労が絶えなかったようですが、
幼少の母を置いていくのはかわいそうと、
再婚の話には耳を貸さなかったそうです。
明治生まれの大柄で朗らかな祖母は
故郷熊本から大阪で所帯を持った母に呼ばれて
一緒に暮らすようになったのです。
同居したときには、若い時の農家の嫁としての
重労働がたたって、寝たり起きたり状態だったのですが、
祖母が庭の花を育てたり、布団の打ち直しをしたり、
反物の洗い張りをしたりするのは見ていました。
さらに、熊本では織物をしていたという話、
今日初めて聞きました。
家長は公務員系の仕事をしていたらしいので、
農業は女性の仕事。
農業の傍ら養蚕をしていたというのは、
聞いたことがあります。
そこでできた繭は売っていたのですが、
家族用の織物を作る分は残し、
糸を作り、機を織り、反物を染め、
着物に仕立てていたらしいのです。
稲作は秋まで忙しいはずですから、
冬の農閑期の仕事だったのでしょうか。
忙しい家事の合間の仕事ですから、
一日に織れる量はそんなになかったと思います。
近所の久留米織りの名手に習い、
矢絣なども上手に織っていたし、
染めも型紙を買ってきて自分でしていたそうです。
近隣で織物が盛んだったわけではなくて、
の中ではその名手と祖母だけが織っていたようです。
何から何まで!
生活を紡ぎだす手であったのだなあと思います。

タンスの底から出てきたのは、祖母が織って
大阪で染屋さんに染めてもらったという着物。

これは母用にしては地味すぎるような・・(・ω・;A

でも見てください!

袖の内側と背中は朱色の裏地です。

さらに歩くと見える裾の部分にこのおしゃれ!

これは母が18歳ころ着ていたという長襦袢。
派手です・・(・ω・;A

この褄の部分の仕立てが難しいのだそうです。
赤い部分を「すうっと中に入れるのが難しい」
表はものすごく地味、見えないところで派手にしたのですね。
これは全部祖母が決めた色柄ということです。
一枚の布、一枚の着物がいろいろと語ってくれました。