あさっての晩から二人で札幌に行く。毎年1回の墓参り。でも今年は義母の十三回忌。彼はもう過去帳、念珠、お布施袋まで準備し、親戚への手土産を考えている。
13年前義母ががんで最後に入院したとき彼の転勤でバンコクにいた。バンコクでの2回目の正月に遊びに来たときは歩くのもつらそうだったけど負けず嫌いの母は息子や私の手は借りず、日傘をさしてワンピースを着てパンプスで歩いていた。その4年前、最初に手術したときすでに転移があったので、それから好きなことをして暮らしていた。でも一人息子の彼はそこまで深刻な病状だとは知らされていなかった。
帰国後の3月に入院し、その後退院して自宅療養していたが、義父も家事は義母にまかせっきりだった人で細かいことは気づかなかったし、当時仕事も忙しかったこともあり、転勤先の大森のマンションで母が動ける範囲で家のことをしていた。6月に一度2人で母の見舞いに一時帰国し、私はしばらく一人で残った。そのとき家事を手伝い、車椅子を押して近所の総合病院に通ったが、私はそれだけでぐったりしてしまう全く役に立たない人間だった。
義母には大学時代にも何度か会ったことはあったけれど、当時結婚二年目で、結婚後すぐバンコクに行ったのであまり接する機会はなくまだお互い遠慮があった。家のこともどの程度手伝っていいのかよくわからなかったし、私は食事を作るのも2時間かかるほど手際が悪かった。だから本当に最低限のことしかできなかった。でも義母は後から考えるとインターフェロンの副作用で鬱だったと思う。2週間ほど手伝ってそのまま帰ってしまったが、もっと家を介護用に整えておくべきだった。
今でこそ介護用品はどこでも手に入るし、ヘルパーサービスも充実してきている。ただ当時はそこまで便利ではなかったし義母もまだ56歳だった。そして私は何を準備しておくべきか頭がまわらなかった。
その後は何となくバンコクで2人でのんびりしていた。深刻さを事実として受け入れられなかったのだと思う。彼の上司は帰任させてあげるとも言ってくれたようだけれど、義父がついていたのでバンコクでがんばろうということになった。でも七会忌も過ぎたころ、彼が「本当は怖かった」と言った。
そして10月に入りとうとう痛みが耐え切れなくなり入院した。もう治療という段階ではなかったのでモルヒネと栄養剤ぐらいしかなかった。2人で会いに行ったとき、もう義母はほとんど食べられなかったしあまり話しもしなかった。そして私一人残り実家から毎日病院に通った。義母の容態は毎週悪くなるばかりだった。11月も半ばになると、病院に行っても話すこともできず、特に何かを手伝ったわけではなかったけれど私は疲れきってしまっていた。
彼は2週間に1度の割合で見舞いに帰ってきた。最後に見舞いの帰り際、義母が「帰るの」という目をした。そして一週間後義母は亡くなった。その3日位前から、危ないからと朝5時ごろ呼び出されたりしたけれど、私は(当然彼も)最期には間に合わなかった。
その後はあまり覚えていない。ただ私は精神的に目一杯で彼や義父のことは全く思い遣ることができなかった。とにかく目の前の用事をこなしていくという感じだった。
四十九日の法要は2月の雪の札幌だった。とにかく寒かった。そしてそれが義父と話した最期になった。
2人でバンコクに戻り、私はタイ語を習ったりして気ままに暮らしていた。彼はまだ入社4年目だったので仕事で手一杯だった。義父はまだ現役で出張も多く、友人も多かったので、きっと大丈夫、またそのうちバンコクに遊びに来てもらえばいいぐらいの感覚だった。それが6月24日、家に帰ると義父が倒れてICUに入っていると彼からの電話があった。その夜満席の飛行機に飛び乗り翌朝病院に駆けつけると義父の会社の人と私の父がいた。
病名は肺梗塞だった。倒れる前日札幌でゴルフしたそうだ。ただ夜東京で会社の人と一杯飲んだとき、どうも調子が悪いと言っていたらしい。でも朝自分で救急車を呼んで、病院に着いたときは歩いて中に入ったそうだ。だから担当医も、「今は人工呼吸器をつけてますけど、麻酔をやめれば意識が回復します。」と手馴れた感じの説明だった。ところが麻酔をやめても義父の意識は戻らなかった。そして「限りなく植物状態に近い状態」と言われた。
義母の時とは事情が変わっていたので、彼は帰任できなかった。私は一人だった。そのような状態で4ヶ月入院し11月に義父は亡くなった。義母の1回忌と父の四十九日を同時に行うことになり、彼は本当に一人ぼっちになってしまった。そして私はまたしてもそんな彼をいたわるような余裕は全くなかった。
12年経った今になって言えることは、逝ってしまった両親も若すぎたけど、私達もそれを受け止めるには若すぎて、後悔だけがたくさん残った。
そして私達は今度40歳になる。