貧乏であることは、必ずしも不幸を意味する訳ではない。
だが、貧乏であることは、不幸であることが多いのが実情だ。実際、お金がないのは辛い。お金が無い、ただそれだけで気持ちが荒むことは珍しくない。
私は決して裕福な家庭で育ったわけではなく、むしろ一時期は貧乏な部類に入っていたと思う。父母の離婚後、一時祖父母の家に身を寄せていた母は、小学校の用務員の仕事を得て生活が安定すると、実家を出て子供たち3人と暮らした。
おそらく、その時期が一番貧しかったように思うが、一応は地方公務員であったので、公務員宿舎に入ることが出来たのは幸いであった。それでも育ち盛りの3人の子供を抱えての暮らしにゆとりはなかったはずだ。
しかし、あの頃私は決して不幸だとは思っていなかった。お金に余裕がないことは気がついていたが、狭いながらも安心できる我が家で、それなりに幸せだと思っていた。
母は、私たち子供が惨めな思いをしないよう、いろいろと気を遣っていた。外食は子供たちの誕生日に渋谷のレストランだった。私は家では食べられないグラタンを楽しみにしていた。3人兄妹だったので、年3回は楽しめた。
たまの休日には、叔父さんの家へと遊びに行かせてもらえた。従兄弟たちは幼い子が多かったので、あまり一緒に遊んだ記憶はないが、叔父さんたちに田んぼや用水路で虫取り、魚とりをさせてもらったのは楽しい思い出だ。
年に一回ぐらいは、国民宿舎や安い民宿などで旅行をすることもあった。食堂で隣の家族が、豪勢な魚貝料理を盛ったお皿を前に騒がしいのを横目に、簡素な食事で済ませることに少し気後れを感じることはあった。
でも、こうして旅行に来るだけでも、母には大変な出費であることぐらいは分っていた。いつかは、自分で働いて稼ぎ、豪勢な食事を食べてやると心中密かに願っていた。
今にして思うと、やっぱり貧乏だったと思う。思うけど、あの頃あの貧乏は苦しくはなかった。辛いとか、惨めとか悩むことは皆無だった。多分、近所には、我が家以上に貧しい家が少なくないことを知っていたからだとも思う。
中学に入る頃には、私は早く働きたくて仕方がなかった。私が稼げば、妹たちは高校にやれると考えていたからだ。後で知ったのだが、上の妹も同じことを考えていたようだ。
母は私を遠い親戚の営む工務店に大工の弟子として働かせるつもりであったらしい。もし父が帰国して、経済援助をしてくれなかったら、多分そうなっていただろう。
父は帰国して自分の父母の死を知り衝撃を受けて、慌てて興信所を使って私たち家族を探し出したそうだ。そして、当時、家が買えるくらいのお金がたまった通帳をくれ、そのカネで進学するよう私を呼び出して伝えた。
私は見たこともない金額の通帳に驚きながらも、その通帳はさっさと母に渡してしまった。これは母こそが受け取るべきものだと確信していたからだ。
今だから思うが、私は貧乏な暮らしであっても、母の努力の甲斐あってお金の苦労を知らずに育った。だからこそ、金銭に対する欲望が、少し薄い気がする。少なくても金銭欲が貪欲であることはない。
おかげで今、少々苦労している。お金は努力しなければ稼げないし、貯める努力をしなければ、どんどん無くなっていく。人並み以上には稼いでいるつもりだが、お金に苦労したことが少ないせいか、貯めるより使うほうが多い。
定期的に給料が振り込まれる仕事ではないので、毎月の資金繰りをしっかりしないと、すぐに銀行残高が不足する事態胃に陥る。独立以来3年がたったが、2回ほど冷や汗かいている。
だからお金がないことが、どれほど心を荒ませるかが少し分る。貧乏は不幸であるとは限らないが、お金がないことは不幸を確実に呼び込む。まさか40代も後半にはいって、それを実体験するとは思わなかった。
そんな暢気な私にとって、カネに関しては相当な苦労をした西原が、自己の経験をもとに書いた表題の書は、非常に興味深かった。おそらく西原が喋って、それをライターが文章にしなおしたのだと思う。ちなみに漫画はなく、挿絵があるだけです。
でも失望することはありません。なにせ、その内容はもの凄く濃い。貧困層の出であることを隠さず、そこから這い上がった人の凄みを感じざる得ない。ちょっと敵わないなァと思う。実体験から学んだカネの浮ウ、ありがたみは実に説得力がある。
いささか暢気すぎる私には、いささか耳に痛いぐらいだ。興味がありましたら是非どうぞ。