白い寝巻きは勘弁して欲しい。
看護婦に聞くと、色が白だと出血とかが分りやすいので、役に立つとの話だったが、どうも私は苦手だ。どうしたって、死に赴く趣を否定できない。
あれは私が最初に入院した年だった。寝たきりから脱して、移動式の点滴台にしがみ付かなくても歩けるようになったので、8人部屋に移された。
いろんな病気の方がいたが、中高年が多く、当時23だった私が最年少であった。大学時代にテント暮らしを長く経験していたので、集団生活に苦手意識は無かった。しかし、周囲にこれだけ高齢者が多いところで暮らした経験はない。
毎朝、英字新聞を辞書なしで読むインテリのお爺さんから、ふり仮名がないと漢字が読めないオジサンまで、いろんな人がいた。その部屋の最高齢でもあったSさんは、実にお洒落な方で、パジャマがカラフルなのにはビックリした。
けっこう長く入院しているにもかかわらず、Sさんは毎日パジャマを着替え、その色の組み合わせは一つとして同じものではなかった。毎朝、早起きして身奇麗にして、看護婦さんが起こしに来るのを待っていた。
着たきり雀の私なんぞ、寝巻きなんざジャージかスウェットで十分だと思っていたので、いろいろ組み合わせるSさんのお洒落感覚には感心したり、呆れたり。毎朝、お洒落して看護婦さんに挨拶するので、女好きなナンパな人なのかと思ったが、毎日やってくる大柄な奥様とのオシドリ夫婦だと分り、本当のお洒落好きなのだと分った。
お洒落で小柄なSさんは、大人しく、飄々としていて、病棟でも人気があったと思う。
入院生活を送ったことがある人は分ると思うが、病院の夕食は早い。夕方の6時には配膳される。高齢ながらSさんは、いつも自分で配膳車から自分の食事をベッドまで運んでいる。
その日も、いつものように配膳車からベッドまで食事を運び、ベッドに座って食べだしていた。入院生活の数少ない楽しみは食事であり、その日も穏やかな雰囲気で食事が始まった。
すると、何かが落ちる音がした。なにかと思ったら、Sさんがスプーンを落としたようだ。ん?様子が変だ。Sさんがブルブル震えている。驚いて駆け寄ると、軽い痙攣のように思える。
慌ててナースコールを押して看護婦さんを呼ぶ。駆けつけてきた彼女たちが、Sさんのベッドの周囲のカーテンを閉め、なにやら処置をしている。部屋に緊迫感が漂う。
しばらくしてSさんは落ち着いたようで、私たちも食事を再開し、片付けている最中だった。カーテンを自分で開けたSさんが、主治医のH先生を呼んで欲しいと言ってきたので、私がナースステーションまで足を運び伝える。
あいにく、その日は土曜日でH先生は非番であったようだが、婦長さんが電話をしておきますと言ってくれた。その事をSさんに伝えると、珍しく強行に、どうしても今日、来て欲しいと言う。
同じ部屋の方たちも、日頃大人しいSさんの強硬な姿勢に驚き、部屋を代表して某大手商社の営業部長だった方が、婦長さんに掛け合ってくれた。その甲斐あってか、数分後婦長よりH先生が駆けつけるとの報をSさんに伝える。
Sさんは、その話を聴くと礼も言わずに、カーテンを閉めてなにやらゴソゴソなにかをしているようだ。温厚で礼儀正しいSさんの豹変振りに驚くと共に、これから何が起きるのか目が離せなくなってしまった。
一時間後だと思うが、私服姿でH先生が、早歩きで病室に飛び込んできた。するとSさんは、自分でカーテンを開けて、H先生を向かいいれた。
驚いたことに、Sさんは真っ白な寝巻きをまとい、ベッドの上に正座していた。そして、どうしたのと問いかけるH先生を制して、話し出した。
背筋を伸ばして、はっきりとした口調で「H先生、長い間お世話になりました。どうやら、お迎えがきたようです」。そう述べると、深々と頭を下げ、その後じっとH先生を見つめていた。
絶句するしかなかった。部屋の空気が固まってしまった。
私はこの後の十数分を忘れることが出来ない。H先生は、勧められた椅子に座ることさえ忘れて、必死になってSさんを説得しはじめた。
細かい科白は覚えていないが、何度となく「ボクが絶対に貴方を治す。まだ、お迎えの時ではないです。」と必死で話すH医師の姿は、日頃のベテラン医師としての余裕なんぞない、まるで新人医師のような趣であった。
同部屋の他の患者さんたちは、誰一人部屋を出ることなく、皆聞き耳をたてて事の成り行きを見守った。H先生の必死の説得の甲斐あって、Sさんは最後には「分りました、もう少し頑張ってみます」と小声で返答した時には、皆思わず安堵のため息をもらした。
その後のことだが、多少の後遺症は残ったが、Sさんは二ヵ月後には無事退院された。私は検査中で見逃したが、退院のときのH医師とSさんのやり取りは、それは仰々しいものであったそうだ。
それにしてもSさん、あの白い寝巻きは入院時から用意してあったのだろうか。死を覚悟の入院であったのだとしたら、そのお洒落に対する拘りは本物なのだろう。
私は、この一件以来、真っ白なTシャツを寝巻き代わりにするのを止めてしまった。センスはともかくも、とにかく色つきの服に限るようにした。あたしゃ、まだ死装束をまとうには早すぎるよ。