世の中には、いろんな見方がある。
先月末に報じられ、未だその騒動止まないのがFIFAの理事たちへの裏金疑惑だ。この騒動のミソは、アメリカの司法省が告発しているところだ。
アメリカ政府が、自国内のみならず、世界中で贈賄汚職などについて問題視しだしたのは、私の記憶では1990年代のWTO/GATTの改変と、新たな世界貿易のための共通ルール作りを云いだした頃だと思う。
要するに、アメリカ政府は、世界各地で行われている政府高官に対する不公正な贈収賄の習慣が、アメリカの企業に悪影響を与えているだけでなく、麻薬や武器取引による汚いお金の洗浄(マネーロンダリング)に使われていると言いたいのだ。
これは、既に日本にも影響しており、現在の法人税法では企業が海外で不正に支出した金額を否認する規定が設けられている。また日本政府自体も、海外のおける不公正な商慣習や、贈収賄について以前よりも厳しい視線でみるようになっている。
だが、私はいささか懐疑的である。贈収賄が悪いと言うのは簡単だ。しかし、それを悪いと断じるには、その社会が公正に運営されていることが基礎条件だと思う。この場合の公正さとは、その国の行政機能のことを指す。
多少の偏見と事実誤認はあるだろうが、おそらく世界の大半の国は、その社会の行政機能は決して公正ではない。役人を動かすには賄賂は欠かせないし、賄賂なくしては社会がうまく機能しない。
飲食店一軒を出店しようとするだけで、警察、保健所その他の役所に付け届けが必要となる。それをしなければ、陰に日向に妨害されて、仕事どころではない。そんな国は珍しくないどころか、普通にいたるところにあるのが現実だ。
アメリカや日本などの先進国からすれば、とんでもない悪質な国々に見えてしまうが、それはあまり公平な見方とはいえない。なにしろ公務員の給与が安すぎる。賄賂がなければ家族を養えない実情を思えば、多少の出費はやむを得ず。そんな場合も少なくない。
賄賂と書くと、頭ごなしに悪いことだと思うのは先進国の傲慢だともいえる。そもそも政府をはじめとして、公的な機関が真っ当に機能しておらず、また税収の確保もままならぬ国だと、末端の下っ端公務員には賄賂こそが生計を立てる手段となるのは必然だ。
話をFIFAに戻すと、本来はサッカーが盛んな国の交流の場であり、国際大会などの調整機関に過ぎず、多額の裏金が動くような場ではなかった。だが、TV放送の国際化と、その試合の放送権とかが営業的に莫大な利益をもたらすにつれて、裏金が動くようになってきた。
その最大の契機となったのが、皮肉にもアメリカ大会であった。プロサッカー不毛の地と呼ばれたアメリカは、四大スポーツ(アメフト、バスケ、野球、アイスホッケー)以外のスポーツには冷淡であった。
しかし、サッカーが国際的に金になると分かった途端、広告代理店やファンド、弁護士などが目をつけた。輸出にそれほど熱心でなかったアメリカが、輸出に活路を見出そうとした時期と一致していたことも災いした。
サッカーは金になる。そのことが分かってから、アメリカは急速にサッカー利権に口を出すようになってきた。すなわちグローバリズム、アメリカ流商売の押し付けでもある。しかし、それに抵抗したのが、プラッター会長に率いられたFIFAであった。
この流れを理解すれば、今回のスイス司法当局によるFIFA幹部たちへの取り調べが、アメリカの司法省の意向に沿ったものであった背景が分かると思う。単にスメ[ツと裏金という視点だけは、決して理解しえないのが今回の事件である。
一度、新聞などを読み返してください。日本のマスコミの報道のレベルが良く分かりますよ。