ヌマンタの書斎

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クーデンホーフ光子の手記 シュミット村木眞壽美

2019-04-24 12:03:00 | 

断固たる覚悟と、それを実践するための努力は、時として人の心を頑なにしてしまうのかもしれない。

明治時代にオーストリア=ハンガリー帝国の由緒ある貴族の家に嫁ぎ、夫が亡き後も帰国せず、異国の地で生涯を終えた女性がいた。20世紀初頭のヨーロッパの貴族社会で「黒い瞳の貴婦人」として知られたご婦人でもある。

おそらく近代以降、最初の国際結婚であり、ヨーロッパの貴族社会に初めて入った日本人であろう。

初等教育くらいしか受けていない光子だが、その後の努力によりドイツ語、フランス語などを学び、貴族社会に相応しいレディとなって7人の子供を育て上げただけでなく、夫の早過ぎる死後は家長としてシュミット家を守っている。

当時は黄禍論などが宣伝され、日本に対する風当たりも厳しいだけでなく、世界大戦もあった動乱の時代である。光子も多くの財産を失い、最後は二女に見守られながらかの地で亡くなっている。結局、一度も里帰りすることはなく、日本大使館の関係者に守られながらの最後であった。

彼女の名前は、時たま書物で目にすることがあったが、詳しくは知らなかった。私はなんとく、その容姿の美しさを見初められて現地妻となり、その後夫に連れられて渡欧した女性程度の認識しかなかった。

表題の書は、いろいろと誤解の多いクーデンホーフ光子の手記を通じて、彼女の半生を著わした力作である。私も誤解していた一人である。

正直驚いた。たいへんな努力家だと思う。異国の地で家督を守り、子供を育て、貴族社会にも出入りしていたのは、本人の努力の成果あってのものだと知り、著者が苦労して末オた気持ちがなんとなく分かった。

ただ唯一残念に思うのは、彼女の晩年が孤独なものであったことだ。あれほど子供たちの教育に苦労したのに、最後に残ったのは二女一人。でも、この手記を読んで思ったのは、それは彼女が自ら招いた孤独ではないかとの疑念であった。

亡くなったご主人は、18の言語を話し、読み書きさえ出来る大変な知的エリートであった。その夫が守ろうとした旧家を引き継ぎ、夫の教えを実践しようとした努力は素晴らしい。

しかし、自由に生きようとする子供たちの希望を受け入れることが出来ず、絶縁してしまった事が、孤独な晩年を招いたのは確かだと思う。優秀な子供たちが、舞台女優を娶るなんて、光子には家名に泥を塗る行為にしか思えなかったのだろう。

でも、後進国である日本から嫁を娶った亡き夫の事は考えなかったのだろうか。家族よりも家名を守ることに囚われすぎたのではないか。そこまで彼女を追い詰めたのは、当時のヨーロッパの貴族社会であろうことは、この手記からなんとなく読み取れる。

ちなみに、彼女が絶縁した二男は、汎ヨーロッパ主義の提唱者で、ヨーロッパ連合の結成の精神的支柱になった人だそうです。妻に女優を選んだことを光子に叱られ、絶縁されたのですが、私には光子の夫の良き後継者であったように思えるのです。

光子がたいへんな努力で、夫の残した貴族の地位を守ろうとしたのは分かるのですが、そのために子供たちを失ったのは、彼女の頑なさが一因であったように思えてなりませんでした。

なお、表題の書は、光子が幼くして父を亡くした子供たちに、父の姿を伝えようとして書き残したものです。光子がどのように夫を見ていたのかも興味深いのですが、私としては日本から中欧への旅行記として興味深く読ませて頂きました。

伯爵が日本滞在中に旅行した朝鮮への虎狩り旅行及び立ち寄ったウラジオストックの描写も生々しく、あの時代をよく描けていると思います。興味がありましたら是非どうぞ。

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