三河の土豪であった松平氏の総領であった後の徳川家康は、なぜに秀吉の命に従い関東へ移ったのか。
先祖代々引き継いできた温暖な三河の地を離れ、日本の中心である京都から遠く離れた地への移封は、徳川家臣団にも相当な反発を産んだはずだ。しかし、家康は受け入れている。
時は1590年、20万の大軍をもって北条氏を屈服させた豊臣秀吉の最盛期であった。当時、大雨のなどの災害で三河の地は大きく疲弊しており、秀吉と一戦を交える余裕がなかったが故の苦渋の決断であった。
私はそう思っていた。忍耐を得意とする家康ならではの賢明な決断だと思う。もしかしたら秀吉は、家康及びその配下の家臣団の暴発を期待していたのかもしれない。それを察知しての苦渋の決断だと、私は考えていた。
ところが表題の書を読んで、家康の深慮遠謀に驚かされた。
私たちは今の関東を知っている。世界屈指の大都市・東京を抱えた広大な平野である。そう思っている人は多いと思う。しかし、1600年当時の関東は平野ではない。広大な湿地帯であった。利根川や荒川の河口口であり、砂と泥で埋まった荒れ地であった。
一度大雨が降れば、江戸の地は洪水に見舞われる。とてもじゃないが、まともに暮らせる土地ではなかった。しかし、家康はこの湿地帯に未来を夢見た。
江戸湾に流れ込む利根川を、東の銚子から太平洋に流すことによる大規模な灌漑を計画した。堤防を築き、江戸の地に巨大な土木工事を行った。この工事は家康から家光まで三代にわたる大事業であった。
その結果、1560年までの日本の耕作地140万ヘクタールから、100年後には300万ヘクタールへと倍増させている。増加したのは、関東の大規模灌漑の成果である。当時は米が経済の根幹だから、家康は国富を倍増させたことになる。
まさに英断であった。
ところで、関ヶ原の勝利の後、なぜに家康は幕府を関西で開かなかったのであろうか。京都はともかくも、秀吉が巨大な城を築いた大阪に幕府を置いても不思議ではない。
その理由を知りたかったら、是非ともこの一冊を読むべきです。なるほど!って私は軽く感動しました。人間と自然との関係を考える意味でも必読の書だと思います。