ヤンキーが苦手な人は多いと思う。
私自身、日ごろ付き合いのある友人は、大卒、上場企業勤務の上品な連中が多い。ただし、仕事では中卒の職人上がりの親方社長さんや、高卒、専門学校卒の叩き上げの社長さん、事業主さんとの付き合いが多い。
これらの人たちは、若い頃はヤンチャをしていた、いわゆるヤンキーと呼ばれていた人が多い。特に職人を使う仕事をしている親方は、腕っぷしも強く、強面もする、ちょっと怖い感じの人が少なくない。
私はヤンキー上がりではないが、育ちが悪かったので、このタイプの方々を苦手にしていない。いや、ぶっちゃけ結構好きである。乱暴な人もいるし、悪い奴もいる。でも素ではイイ奴が多いのも確かだと思っている。
そんな一人にKさんがいる。けっこう腕の良い職人なのだが、なにせ口下手というか無口に過ぎる人なので、私が顧問を務める土木会社の社長さんも、少し扱いに難儀していた。
そんなKさんが、ある日十代の若い男の子を連れてきた。この子は珍しく無口なKさんと気が合うらしく、この子を通訳みたいにしてKさんと話すのが一番手っ取り早かった。
私も確定申告の際の面談で、いつもKさんには難儀していたので、この若い兄さんに同席してもらうことにした。この子はKさんを「あんちゃん」と呼ぶので、てっきり兄弟かと思ったら違うという。親戚?なんなのだ?
結論から言うと、まったくの赤の他人であった。守秘義務があるので、今回はかなりフェイク入っています。
若い兄さんは、B君という。B君は東北の出身で、両親と三人で暮らしていたが、ある日突然の事故で両親を亡くし、小学生のB君一人残された。特に遺産もなく、数少ない親戚は貧しく引き取りを断ってきた。仕方なく、施設へ送られる予定であったが、遠い親戚の女性が憤慨して、結局彼女の元に引き取られることになった。
B君は覚えてなかったが、その女性Aさんは幼い時に近所に住んでいたらしく、今は宮城の漁港の近くの食堂で働いているそうだ。B君は当初、両親が死んだことを認識しておらず、周囲の人も「お父さん、お母さんは遠くに行ってしまったの」と話してただけだった。
Aさんのアパートに同居することになった初めての晩に「お父さんとお母さんはいつ戻ってくるの?」とAさんに訊ねたら、彼女はB君を抱きしめて号泣。その時、漠然と感じていた不安が真実だったとB君は気が付き、やはり号泣してしまったそうだ。それまで泣くのを我慢しただけに、明け方まで泣きやまなかった。
その後、二人は貧しいながらも助け合って暮らしたが、中学を卒業したらB君は働くつもりだった。しかし、Aさんから「中卒では仕事が限られる、ここに貯金があるから、なんとしても高校だけは出ろ」と言われ、泣きながら高校卒業を誓ったそうだ。
その街には、公立高校は一つしかなく、しかも非常に荒れた学校で、暴力沙汰の絶えない問題高であった。B君も悪い旧友たちに囲まれ、何度も道をはずしそうになった。しかし育ててくれたAさんとの約束もあり、なんとか卒業だけは出来た。
B君は育ててくれたAさんの恩に報いる為、卒業後にすぐ近所の土建屋で働き出した。少しずつ仕事を覚え、最初の給料はAさんを連れて、回らないお寿司屋で食事。Aさんは泣きながら寿司を食べてくれたと懐かしそうにB君は照れながら話してくれた。
それから間もなく、Aさんに彼氏が出来た。B君の知る限り、初めての彼氏だ。それがKさんであった。B君はこの無口なKさんが最初苦手だった。特に二人きりになると、気まずくって嫌だった。
同時に、自分のために女性としての華やぐ時期を費やしてくれたAさんの幸せを想い、一人暮らしを考えたが、意外にもAさんが大反対。しかたなく、B君は親方に頼んで、遠方の現場の手伝いに行く仕事を回してもらった。こうすれば、AさんとKさんの二人の時間が作れると思ったんだと、少し悔しそうにB君はつぶやいた。
だから、あの日、自分はAさんの傍にいなかったんです。この事は悔やんでも悔やみきれませんとB君は涙ぐんだ。あの日、そう3月11日である。
B君はその日、前の晩から泊まり込みで山中の工事現場にいて、そこで山が揺れるほどの地震に遭遇した。揺れが落ち着いて、すぐにAさんの携帯に電話、メールをしたが繋がらない。職場は昔と同じ港そばの食堂である。もちろん食堂の電話もつながらない。
気が狂いそうになりながら、思い出してKさんに電話したら、数時間後に返信の電話があり、今避難所を探しているとのこと。でも町中が水浸しなので、時間がかかると言う。
B君は居ても立ってもいられず、徒歩で二日歩いて街に戻った。その惨状に呆然とするとともに、胸の内に暗い予感が漂い出すのを否定できなかった。
そして数日後、Kさんから連絡があり、指定された場所に赴くと、そこにはAさんの遺体が安置されていた。「スマナイ、見つけるのが精一杯だった」と話すKさんの目は真っ赤だった。
良くみると、Kさんはあの寒さの中、半裸状態であった。漁港そばの食堂は、津波が運んできた土砂や木材、ゴミなどで埋もれており、そこに突き進み、泥に全身を突っ込んで、幾人もの遺体を発見し、最後に見つけたのがAさんだったそうだ。
その後は生きるのに必死で、よく覚えていないです。でも、今まで疎遠であったAさんの親せきがやってきて、「この疫病神、あんたのせいでAはいらん苦労をした」とB君を罵った時、温和なKさんがその親戚の頬を引っ叩いたことだけは良く覚えています。
B君の親戚でもあったその親族と、Kさんの間でどのような話がされたかは分からないのですが、その後はKさんのお宅にお世話になっています。だから、僕はKさんの弟子として働いているのです。
小一時間かけて、ようやく二人の関係が分かった。よく分からないが、私は不思議なくらい感動した。あれから数年後、Kさんは縁あって結婚し、B君は近所にアパートを借りて、独り立ち。でも仕事は相変わらず二人でやっている。
Kさんからの年賀状を見ながら、今さらながら人の縁について考えさせられる。血がつながっていても冷たい関係もあれば、他人同志でありながら暖かい関係もある。
ヤンキーと呼ばれる人たちは外見から敬遠される事が多い。ご多分に漏れず、B君もヤンキーそのまんまである。でも人としての中味は、ぐっと上だと私は思いますね。