中学生の頃までは、一位とか一番という立場とは無縁であった。
いや、一度だけ200メートル走で一位になったことがある。先行する二人の足が絡んで転倒し、3位の位置にいた私が棚ボタで一着になっただけだ。一位の旗の下に立ちながら、えらく居心地が悪かった覚えがある。
もともと進学の気がなかったので、勉学は落第スレスレ。興味があった歴史とか生物は好成績だが、しっかり塾で勉強している連中に敵う訳がない。
しかし、父の経済的支援を受けて高校に進学してからは、一転して猛勉強に励んだ。一度くらい勉強でトップになってみたかったからだ。
落ちこぼれだったころに「それだけ本を読んでいるんだから、勉強だってやれば出来るはずなのよ」とのF子の言葉が事実かどうかを試してみたかったからでもある。
その言葉にウソはなかった。どうやら私には、或る程度の頭のよさがあったようだ。成績表は10、9、8で埋まり、学力テストで学年一位にもなっていた。
でも、なんだ勉強なんてこんなものかと見下したのは失敗だった。私は勉強の先に学問の世界があることに気がつかなかった。ただ、大学受験に役立てばイイ程度の認識だった。
もう一つ感じたのは、ある種の居心地の悪さだった。元々落ちこぼれの出である。成績がトップの奴を見上げたことなら慣れていたが、自分が見上げられる立場は初めてだった。
そして私の知らないところで陰口が叩かれていることも、なんとはなしに察していた。元・落ちこぼれ君であった私からすれば、当然のことであり、知らぬふりで押し通した。
興味深いのは、その手の陰口を叩くのは、日頃はまじめなクラスメイトたちであることだ。私が放課後つるんで遊んでいた連中は、まじめとは無縁の奴らなのだが、こいつらはその手の陰口とは無縁だった。文句があれば、面と向かって言ってくる奴らなので、或る意味信用していた。
むしろ真面目な奴らの妬みや誹りこそ厭らしかった。私は特段頭が良い訳ではなく、地道な努力を積み重ねて優秀な成績を勝ち得たので、恥じることも卑下することもなかった。棚ボタで一位を取ったわけではない。
放課後、パチンコや飲み屋で遊ぼうと、帰宅してアルコールが抜けてから夜更けに勉強していたのだから、好成績は当然だと思っていた。ろくに勉強もしないで妬む奴らこそアホだと思っていた。
ただ、落ちこぼれの気持ちを知っているので、わざわざ波風立てる必要も感じていなかった。ただ、堂々としていればいいだけだ。
表題の本は、アメリカが一人勝ちであった時代を終えて、日本とEUに追われ、追いつかれ、あるいは追い抜かれた90年代中盤に書かれた本である。
さすがに中国の経済的大躍進までは予想しきれてないが、アメリカ、日本、EUの三者が世界経済の大勢を占め、三者の違いと今後の趨勢を論じている点を興味深く読ませてもらった。
私が印象を受けたのは、世界経済の三大勢力となった日本は、超大国ゆえに必ずバッシングを受けるのだから、いちいちうろたえるなと叱咤している点でした。アメリカ人は「ヤンキー・ゴー・ホーム」とバッシングされても、あっさりと無視して我が道を行くだけだ。
その代わり責任ある大国の義務と権利を行使する。(多くの国には迷惑だとしても)サロー教授は、日本も大国の一員として責任と義務を果たすならば、21世紀も大国として存在し続けるであろうと述べていた。
それから十数年、残念ながら日本はサロー教授の期待通りにはいかず、相変わらずバッシングに過剰反応し、大国としての責任と義務から現実逃避を図っているだけ。
私は失敗を反省することは必要だと思うけど、自虐はかえって尊厳を損ね、むしろ卑しさだけが際立たせる。まっすぐ胸を張って堂々歩むことこそ、日本が目指すべきことではないか。
そのためには過去を美化することも、必要以上に卑下することもするべきではない。お天道様に恥じぬよう、堂々前を向いて生きていきたいものです。
いや、一度だけ200メートル走で一位になったことがある。先行する二人の足が絡んで転倒し、3位の位置にいた私が棚ボタで一着になっただけだ。一位の旗の下に立ちながら、えらく居心地が悪かった覚えがある。
もともと進学の気がなかったので、勉学は落第スレスレ。興味があった歴史とか生物は好成績だが、しっかり塾で勉強している連中に敵う訳がない。
しかし、父の経済的支援を受けて高校に進学してからは、一転して猛勉強に励んだ。一度くらい勉強でトップになってみたかったからだ。
落ちこぼれだったころに「それだけ本を読んでいるんだから、勉強だってやれば出来るはずなのよ」とのF子の言葉が事実かどうかを試してみたかったからでもある。
その言葉にウソはなかった。どうやら私には、或る程度の頭のよさがあったようだ。成績表は10、9、8で埋まり、学力テストで学年一位にもなっていた。
でも、なんだ勉強なんてこんなものかと見下したのは失敗だった。私は勉強の先に学問の世界があることに気がつかなかった。ただ、大学受験に役立てばイイ程度の認識だった。
もう一つ感じたのは、ある種の居心地の悪さだった。元々落ちこぼれの出である。成績がトップの奴を見上げたことなら慣れていたが、自分が見上げられる立場は初めてだった。
そして私の知らないところで陰口が叩かれていることも、なんとはなしに察していた。元・落ちこぼれ君であった私からすれば、当然のことであり、知らぬふりで押し通した。
興味深いのは、その手の陰口を叩くのは、日頃はまじめなクラスメイトたちであることだ。私が放課後つるんで遊んでいた連中は、まじめとは無縁の奴らなのだが、こいつらはその手の陰口とは無縁だった。文句があれば、面と向かって言ってくる奴らなので、或る意味信用していた。
むしろ真面目な奴らの妬みや誹りこそ厭らしかった。私は特段頭が良い訳ではなく、地道な努力を積み重ねて優秀な成績を勝ち得たので、恥じることも卑下することもなかった。棚ボタで一位を取ったわけではない。
放課後、パチンコや飲み屋で遊ぼうと、帰宅してアルコールが抜けてから夜更けに勉強していたのだから、好成績は当然だと思っていた。ろくに勉強もしないで妬む奴らこそアホだと思っていた。
ただ、落ちこぼれの気持ちを知っているので、わざわざ波風立てる必要も感じていなかった。ただ、堂々としていればいいだけだ。
表題の本は、アメリカが一人勝ちであった時代を終えて、日本とEUに追われ、追いつかれ、あるいは追い抜かれた90年代中盤に書かれた本である。
さすがに中国の経済的大躍進までは予想しきれてないが、アメリカ、日本、EUの三者が世界経済の大勢を占め、三者の違いと今後の趨勢を論じている点を興味深く読ませてもらった。
私が印象を受けたのは、世界経済の三大勢力となった日本は、超大国ゆえに必ずバッシングを受けるのだから、いちいちうろたえるなと叱咤している点でした。アメリカ人は「ヤンキー・ゴー・ホーム」とバッシングされても、あっさりと無視して我が道を行くだけだ。
その代わり責任ある大国の義務と権利を行使する。(多くの国には迷惑だとしても)サロー教授は、日本も大国の一員として責任と義務を果たすならば、21世紀も大国として存在し続けるであろうと述べていた。
それから十数年、残念ながら日本はサロー教授の期待通りにはいかず、相変わらずバッシングに過剰反応し、大国としての責任と義務から現実逃避を図っているだけ。
私は失敗を反省することは必要だと思うけど、自虐はかえって尊厳を損ね、むしろ卑しさだけが際立たせる。まっすぐ胸を張って堂々歩むことこそ、日本が目指すべきことではないか。
そのためには過去を美化することも、必要以上に卑下することもするべきではない。お天道様に恥じぬよう、堂々前を向いて生きていきたいものです。
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