日本人は人情話が好きだ。
それを否定する気はない。困った人を助ける美徳を否定する気もない。でも助ける余裕がなければ、助けることも出来ない。だからこそ、貧しい人が、より貧しい人に身を削って助ける人情話が人気が出る。
私は一時期、けっこう貧乏な時期を子供時代に経験している。ただし、母に仕事はあったし、賃貸とはいえ家もあった。一応鉄筋コンクリ造りだから、暑さ寒さは十分しのげる。
ただ余裕はなかったように思う。小学生の頃、母と妹たちと旅行に行く時は、国民宿舎か安い民宿が普通だった。ホテルとは縁がなかったが、それを惨めに思ったことはない。
ただ食堂などで、私たち家族が普通の定食を食べている隣で、豪勢な舟盛りの刺身を食べている家族を少し羨ましく思ったことはある。でも、母の稼ぎでの精一杯の旅行の雰囲気を壊すような無作法をしたことはない。
貧しいながらも少しだけ余裕があったから、貧しさを惨めに思うことはなかった。いや、正直に言えば、我が家よりもさらに貧乏な家庭がある事を知っていたからこその心の余裕だったと思う。
私が子供時代を過ごした三軒茶屋の街は、けっこうな繁華街であり、学生も多く賑やかなところであった。でも、ちょっと裏通りに入り、入り組んだ奥に行けば長屋というかバラック小屋が散在していた。
ドブ川であった蛇崩川沿いには、古いアパートに紛れて、壁に無理やり据え付けたような箱があり、なにかと思ったらそこに人が住んでいてビックリしたことがある。少し大きめの犬小屋というか倉庫みたいな家だが、雨風が凌げれば、とりあえず暮らしていくことは出来たらしい。
中学生になる頃には、華やかな繁華街にもうす汚い一面があることも知った。飲み屋から出る空の酒瓶を集めて、残った僅かな酒を飲む人たち。泥酔して路上に寝転ぶサラリーマンを介抱するふりして財布の中味をくすねる人もいた。
酒とパチンコを覚えた高校生にもなれば、銭湯で知り合った近所の人たちから、人情話とは逆の狡すっからい話を聞くことも珍しくなかった。たまにパチンコで大勝すると、その稼ぎで同じパチンコ屋の常連さんと一緒に安い焼き鳥屋に行くこともあった。
勝率の良かった私だが、妬まれぬようにする知恵くらいは持っていた。それをやらないケチなパチンコ打ちは、いずれ嫌がらせを受けることを見聞きしていたからこそ知った知恵である。
はっきり言えば、貧乏人は狡すっからい。自らを卑下するような姿勢で人に接するが、内心はどうやって金を引き出すかを狙っている。自分よりも強い相手には、とことん下手に出る。でも弱いと分ったら、浅ましいまでに強気になる。
貧乏人は親しげに接してくるが、決して気を許せない危なさがある。悪気もなく、ほとんど条件反射で他人のものをかすめとる。見つかると、逆切れするか、逃げ出して誤魔化す。
そして、その翌日には何もなかったかのように接してくる。その姿に吐き気を催すような不快さを味わったことは何度もある。厭だと思いつつも、あの手の貧乏人との付き合いを断ち切るのは難しい。表面的には良き隣人として接してくる悪知恵をもっているからだ。
だから高校卒業と共に、その街から引っ越すことになり、ようやく悪縁を断ち切れた。以来、付き合いはまったくない。
そんな私だけど、人情話は嫌いではない。ただ無条件には信じがたいのは、ひどい貧乏人と接してきた時間があったからだ。人情話がまったくあり得ない話でないことは知っているが、その百倍、逆の話が現実にあることも知っている。
それでも人情話を信じたい気持ちは残っている。表題の著者である山本周五郎は、きっと私以上に汚い現実、こすっからい現実、不快な現実を知っているはずだ。それでいてなお、人の他人を慮る人情を信じたいのだと思う。
過酷なビジネスの現場に身を置いていると、人情話なんてと吐き捨てたくなることがある。そんな時こそ読んでおくべきなのが山本周五郎だと私は考えております。
あ~、これ黒澤明監督の映画「どですかでん」の原作なんですよね。
「青べか物語」とあわせて、私も読みたいな~。
読みやすいので、ついつい時代小説を読んでしまいますが、現代ものも読んでみたいです。