勘違いというよりも確信的誤使用が目立つのが不愉快だ。
多数決原理は、民主主義の根幹をなす。多数派の意見を採用することが最大多数の最大幸福の実現(R・ベンサム)であるがゆえである。これをきつく表現すると、多数派による少数派の弾圧の合法化である。
だが多数派の意見が正しいとは限らないことは歴史が証明している。正しい少数派の意見は確かに実在する。だからこそ、少数派の意見の尊重が重んじられる。
だけど、あくまで尊重である。少数派の意見が正しいが故に採用することを意味している訳ではない。少数派の意見を消し去るのではなく、記録に残すことで後世に役立てようとの意図である。
如何に多数派の意見が押し通されようと、少数派の意見のほうが正しかったことが将来実証されれば、その時こそかつての少数派の意見は多数派に採用されるはずだ。いささか楽観的ではあるが、あるべき理想論でもある。
日本において自由民主党が長年にわたり権力の座に居座っているのは、議会政治における少数派である野党が無能であることが大きい。今はなき日本社会党に代表される左派政党は、自らの善なるを信じ込むあまり、善人たる自分たちの考えは常に正しいと思い込んでいた。
しかし、ベルリンの壁が崩壊し、社会主義国家の隠されてきた惨状が明らかになると、左派政党は急激に信を喪失した。その社会正義を求める主張の裏側における矛盾が露呈してしまったからだ。
ところが、おかしなことに日本においてはこの左派政治家が生き残った。彼らは自らの善人性に確信を抱いていたが故に、自らの政治的主張が誤っていたとは認められなかった。若き日の情熱を燃やした社会主義活動を否定することは、自身の青春時代を自ら踏みにじる行為に他ならず、それをする勇気はなかった。
その典型がいわゆる団塊の世代であろう。彼らは何故に自分たちが間違っていたかを真摯に考察することから逃げた。間違っているのは世間であり、自分たちの社会正義を求める情熱は間違っていないと頑なに思い込んだ。
だからこそ、彼等は未だに声を挙げる。少数意見を尊重せよ!と。
彼等は与党を批難すれども、決して自らの過去を正しく批評することを容認しない。だから間違った主張にいつまでも拘り続ける。この拘りが、民主党政権を失政に追いやった。
健全な野党が育たなかったのは、社会の木鐸として世を公平に論ずべきマスコミが、自らの責務から逃げたからでもある。
私は自民党の政治が常に正しかったなんて思っていない。また野党の少数意見にも傾聴すべき貴重な意見はあったと思っている。両者に違いがあるとしたら、浮ついた浮動票に左右されがちな与党政治家と、熱心な固定信者を有するがゆえ反省をすることをしなかった野党政治家の立場の違いであろう。
わりと勘違いしている人が多いが、かつては農村票に支えられた自民党の政治家だが、農村人口が減少し、都市部に有権者が集中する時代にあって、常に浮動票に苦しんだのが自民党である。
彼等は有権者の歓心を買いたいが故に利権政治に走り勝ちであるが、その一方落選する怖さを痛感しているが故に、自身変節することをも辞さない覚悟がある。
熱心な平和真理教徒に支えられてきた野党政治家が常に少数派で終わるのは、彼らが自らを決して省みないからに他ならない。これを少数派の傲慢という。
自民党政治家が常に多数派で、野党が少数派であるのは、相応の理由があるのである。
野党勢力は変わらないでしょうね。それまでに消滅せねばですが。
そういや市民系の街頭でマイク持ってる人たちって、目立って高齢化してますね。