ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「イン・ザ・プール」 奥田英朗

2008-09-22 09:38:05 | 
科学は進歩したというが、心の闇を解きほぐす術までは解明してくれなかった。

些細なことで、心をかき乱され、日常生活に支障をきたす困惑。当人にとってみれば、これ以上ないほどの真剣な悩みなのに、傍から見たら、「バカじゃないの」の一言で済ませられる。

バカを直すには、バカに任せろとでも言うのか、登場する主人公は医師の名に泥を塗るかのような奇天烈な変人だ。医学的ともいえず、科学的とは程遠い伊良部医師と患者の奇妙な診療風景は、思い出すだけで抱腹絶唐ネ可笑しさ。

笑い終わり、読み終わった後で、しみじみ思い返すと、実はそうバカにしたものでもないことに気付かされる。

「神経症」との診断が下されるほど、真剣に悩んでいる時は、心の視野が狭くなり、本来見えるはずのものが見えないことは、良くあること。一度バカになって、自分を笑い飛ばすほどにバカをやれば、案外心はすっきりするもの。

後になって、なんであれほど悩み苦しんだのだろうと自ら困惑した経験は、誰にでもあるのだろうと思う。その悩みの解決策は、思い返すとたいしたことでもない日常的なものに過ぎないことが多い。

私もやもすると、真面目に過ぎる傾向があるので、時々おふざけをして、心のバランスをとるように心がけている。バカやるのも、たまには好いものです。あくまで、たま・・・ですがね。
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「ぬりつぶされた真実」 J・C・ブリザール 他

2008-09-19 12:57:27 | 
アメリカという国は、基本的にはヨーロッパの延長上にあると思う。

自由、平等、民主主義を標榜する国であり、キリスト教を社会正義の基盤に置く国でもあり、その中心は白人文明でもある。さすがに建国以来200年が経過すると、かなり変質がみられるが、それでも基本は変っていないと思う。

そのアメリカが同じ文明圏であるヨーロッパ以外で、重要性の高い同盟国として位置づけているのが日本とサウジアラビアだ。アメリカの国防上、前線基地であり、補給基地でもある日本と異なり、サウジアラビアには直接の国防上の利害はない。

ただし、石油という国防に大きく影響がある戦略物資の供給拠点としての価値がある。本質的にキリスト教とは対峙するイスラム教国でありながら、アメリカと友好関係にある稀な国でもある。

あまり疑問に思わなかったが、表題の本を読んで改めて考えさせられた。サウジとアメリカって、水と油ではないか。王族による独裁政治と、議会制民主主義。イスラム教とキリスト教、そして石油と金以外になにも資源を持たぬ国と、製造業からサービス業まで多彩な産業を持つ国。

誰にでも知られている国ながら、謎だらけの国、それがサウジアラビア。イスラム教スンニ派とされるが、実際はワッハーブ派という厳格なイスラム至上主義を掲げ、キリスト教のみならずイスラム教シーア派をも敵視する。

石油輸出により多額の外貨を蓄え、それを闇に流し、テロリストを育成し、BCCI事件のような不正にも関与する。オサマ・ビンラディンを追放したといいつつ、今も親族を通じた支援を止めない不透明さ。

どう考えても、アメリカとは敵対するほうが自然な印象が否めない。

しかしながら、サウジの富の源泉である石油には、当初からアメリカが深く関っている。ブッシュ・ファミリーとサウジ王家との親密な関係は有名だ。オサマ・ビンラディンをスーダンでのアメリカ大使館爆破事件の犯人と定めながら、本格的な追求は9、11までは放置していた不自然さ。FBIにアルカイーダの追求を命じながら、それを阻害する国務省。

アルカイーダの本拠地とされたアフガニスタンに軍事攻撃をしかけるが、その本当の目的は中央アジアの地下資源(石油や天然ガス)のパイプルートの設置にあるのではないか。

この本の著者たちは、アメリカの振る舞いに疑問を呈する。無理も無い疑問だと思う。いろいろと憶測することは可能だが、真実は未だ遠く闇の中だ。

もう一つのイスラム原理主義国、サウジアラビアは要注意な国だと思う。その振る舞いは経済的動機だけでは決して理解しえない。経済的視点からの報道に偏りがちな日本の報道だけでは、十分な情報は得れないとも思う。少し注意しておいたほうがいいかもしれません。
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「おれは直角」 小山ゆう

2008-09-18 09:37:35 | 
なにやら北朝鮮が怪しい。

どうやら独裁者である金正日の健康状態が良くないようだ。たしかに以前から、いろいろと噂は流れていた。TVの画像で観て見ても、いかにも不健康そうな様子だった。暴飲暴食の末路の典型に思える。

でも、外見からくる印象の第一は、疑い深そうな冷たい目線だった。誰も信用していないかのような、酷薄な印象が否めない。孤独な生い立ちの人なのだろうと思う。心をひらいて話し合える相手など、一人もいないかのような印象がある。

思い出されるのが、表題の漫画に出てくるお殿様のバカ息子・照正だ。

西洋かぶれのような珍妙な服装と、おかしな振る舞い。封建時代にあっては、そんな変人でも、次代の殿様であることは間違いない。多くの人を引き連れていながらも、常に浮いている。追従者の媚には眼を向けないが、他人から関心をもって欲しくて仕方が無い。

そんな次代のバカ殿を憂いた藩の政治を預かる城代が、引き合わせたのが主人公の直角だった。

武士は曲がったことをしてはいけない。曲がるなら直角に曲がらねばならぬとの妙な理屈から名付けられた直角は下級藩士の息子だ。その名に相応しい、直情径行の情熱バカだが、その熱い思いは人を惹き付けずにはいられない。

バカ殿照正のご学友にされた直角は、直に気がついた。バカ息子は、とても孤独で誰よりも本当に他人との心のつながりを欲していることに。ただ、そのやり方を知らない。あまりに不器用すぎるのだ。

周囲の人間は、心の奥底ではバカ息子と蔑んでいる。誰も本気で接してはくれない。バカ殿息子は、そのことに気づいている。でも、どうしたら良いか分らない。

そんなバカ息子のために、真剣に悩み、どうにかしたいと思う直角は、やむを得ないこととはいえ、規則に背き罰則を受ける。殴打される直角の姿に心打たれ、飛び出して救おうとするバカ息子の場面は、少年漫画屈指の名場面だと思う。小学生の頃は、涙なしでは読めなかった。

たった一人でいい。一人でもいいから、自分を信じてくれる存在があるなら、人は立ち直ることが出来る。

金正日という人には、誰一人本気で褒めて、怒って、叱って、信じてくれる人は居なかったのだと思う。独裁者が孤独であることは仕方ないが、人として孤独であることは、喩えようも無く不幸だ。
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会計基準の変更

2008-09-17 12:36:26 | 経済・金融・税制
経済情報に詳しい方ならご存知だと思うが、日本でも2011年から国際会計基準が適用されるようなる。

会計とは、企業の活動を数字で表現することだ。ただ、表現する視点をどこにおくかで、表現が多少変ってくる。従来の会計は、企業がいくら儲けたかを表すことに重点が置かれていた。

しかし、今度の国際会計基準は違う。単純に、少し乱暴に表現すれば、この会社売ったらいくら、の視点で決算書が書かれるようになる。つまり、投資家向けの情報だ。

別に間違いではない。時代の流れに沿ったものだと思う。ただ、勘違いして欲しくないのだが、会計制度がより良くなったわけではない。

アメリカでのサブプライム問題をみれば分るように、既に国際会計基準が実施されているアメリカにおいてさえ、決して万能な会計基準ではない。国際会計基準では、企業の現在価値を表すことに主眼が置かれているが、それでもサブプライム危機は避け得なかった。いや、場合によっては必要以上に危機を広めてしまったかもしれない。リスク開示は、ある意味諸刃の刃としての性格を有するのは避け得ないからだ。

私自身は、国際会計基準を日本の中小企業に適用することには、あまり積極的ではない。実情に適さないと思うからだ。上場を目指さない小企業に、投資家向けの視線で決算書を作成することに価値があるとは思えない。だからこそ、中小企業会計基準があるのだが、まだまだ世間的な認知度が低い。

私は、経営者に分りやすい決算書でありたいと思っているが、国際会計基準は必ずしも実情にそぐわない。目指すところは分るし、それが駄目だとは言わないが、物事には段階とか、相応の基準があると思う。

それでも、よく考えられた基準だと感心する点は多い。勉強しがいがあるのは確かだ。多分、学者や実務家など、様々な立場の人たちが話し合い、内容を決めてきたからだと思う。

その後で、公益会計基準を勉強すると、その稚拙さにうんざりする。意図するところは分るが、実務家の視点が欠落している。現場を知らぬエリートの机上の作文を、そのままに法案化したとの印象が拭いきれない。こんなものを強制適用されたら、たまったものじゃない。

きっと、今頃誰か頭のイイ人が抜け道を探していると思う。その抜け道が公表されてからでないと、とてもじゃないが動けない。霞ヶ関のエリートさんたちが頭が良いのは知っているが、現場の経験がないので、実際にはすぐ使えない改正案を出すのは危ないと思う。抜け道が悪用されたら、どうするんだ?

この記事、一般の人にはピンとこないと思うが、現在ある公団、公社などの公益法人には、とてつもない影響がある。悪いことは、世間が知らぬ間に堂々と行われてきたのが過去の実情。税制上の特典を得て財産を蓄積してきた公益法人が、いま激動のさなかにあることは、ちょっと覚えておいて欲しいと思います。

多分、何年かしたら不正事件が出ると予感しています。
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「枯木灘」 中上健次

2008-09-16 13:53:59 | 
心の奥底から湧き上がる不気味な衝動を抑えかねて暴れまわっていた。

訳も無く自転車置き場の自転車をなぎ倒し、塾帰りのクラスメイトを無理やり公園に引きずり込み、プロレスの技の練習台をやらせた。一対一の喧嘩もできない根性なしどもが、数人で群れてかかってくるのを、迎え撃ち怪我だらけで帰宅した。でも、親に愚痴った覚えは無い。

あの頃は、いつも喧嘩用に武器を隠し持っていた。小石を握りこんで殴れば、ただの拳よりはるかに痛い。砂を押し込めた靴下をふりまわせば、ブラックジャックの代わりになる。一人で多人数を相手するときは、武器が絶対必要だった。相手が怪我しようが、悪いと思ったことはない。

ただ、止めに入った友達までも傷つけたのは失敗だった。唇に裂傷を負わせてしまった。優しくて気の弱い奴だけど、数少ない私の遊び友達だった。転校生で孤立しがちだった私に最初に声をかけてくれた奴だった。

頭に血の上った状態の私は、彼が飛び込んで止めに入ったのに気がつかず、その顔面を小石で殴ってしまった。はでに出血したため、女の子たちが悲鳴を上げ大騒ぎになり、担任が飛び込んできた。

私が悪いと決め付けたバカ教師は、私を校長室に連れて行き、校長と教頭のまえで、私を施設に送るべきだとまくし立てた。こんな時、私はしおらしく頭を垂れ、気落ちしてみせる演技ぐらいはお手の物だった。

もともと、この担任とは相性が悪かった。真面目な顔して「世界の人たちが手を取り合えば、世界平和はきっと叶う」などと絵空事を長々と陶酔しながら話す、世間知らずだった。米軍基地の隣町で、白人たちの蔑視と薄汚い喧嘩を繰り返してきた私には、とうてい信じることの出来ない甘ったるい妄想だった。

私がこの担任を嫌ったのも事実だが、この担任も私を嫌っていた。子供って奴は残酷なものだ。私が担任に嫌われていることを察した奴らが、いい気になって私に絡んできた。やられたら、やり返すのが当然の世界で育った私が、大人しくやられるわけがない。1対5では勝てなくとも、帰り道で一人の時にタイマンで挑めば負けはしなかった。

おかげで父兄からも苦情が絶えなかったらしい。あの頃、私は家庭以外のすべての世界が敵に思えた。だから、校長室で、校長先生から「なぜ、そんなに喧嘩をするのかね」と尋ねられた時、言いたいことは沢山あった。なぜ、自分の宿題の作文だけゴミ箱に捨てられ書き直しなのか。なぜ、喧嘩を売った側が叱られず、喧嘩を買った自分だけが叱られるのか。なぜ、なぜ、なぜ!

でも、言えなかった。言おうと思ったら、急に心の底から激情が噴出して、声が出なくなった。穏やかに促す校長先生の声に背中を押され、振り絞って発した言葉はただ一言。

担任を睨みつけながら、「先生はズルイ!」と悲鳴にも似た叫びを放つのが精一杯だった。

上手く発音できたかどうか分らないぐらい、心がかき乱され、気がついたら大粒の涙が出て止まらなかった。教頭先生が私の手を引いて、保健室に連れて行ってくれたことは微かに覚えている。校長室を出る直前、校長先生が担任を睨んでいたように思えたが、よく分らなかった。

結局、施設に送られることはなく、また私も校内で暴れることをしなくなった。悪さをするのは、放課後の公園や繁華街だけにしていた。おかげで警察の世話になる羽目に陥ったが、別に悪いと反省した覚えは無い。ただ、自分の激情を抑えきれぬことに、苦々しい悔恨は感じていた。

数週間後、母の転勤に伴い転校することとなり、私は救われた。転校先では、自分でもビックリするくらいイイ子になれた。お決まりの転校生虐めはあったが、くすぐったいものだった。今だから分るが、母の転勤は周囲の大人たちの相談の結果だろうと想像している。

世の中は平等でも、公平でもなく、理不尽で、無雑作に残酷なものだ。個人の真摯な努力ではどうしようもないことって、たしかにあると思う。

表題の作品の主人公も、自らに与えられた理不尽で猥雑で、どうしようもない環境のなかで、ただ心を無にして生きようと努めたが、自分でも理解しえない激情に飲まれてしまう。海と山と濃密な人間関係に閉ざされた枯木灘を舞台にして描かれたこの作品は、十代の頃一度読むのを挫折した作品でもありました。あの複雑な親族図に圧唐ウれ、読むのを放棄してしまったのです。

この年になり、ようやく読みきれました。もし、転校していなければ、主人公の運命は、私にも重なったかもしれません。逃げたと批難されようと、時には逃げ出すのも必要だと考えています。
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